2026年12月、神奈川と京都で起こる異常事態
2026年12月3日から6日まで神奈川・KAAT神奈川芸術劇場 大スタジオで、続く8日から10日まで京都・アンダースローで、ひとつの風変わりな公演が行われます。タイトルは「『マクベス』モルドバ国立サチリクス劇場version / 地点version」。演出家・三浦基が率いる劇団「地点」の最新プロジェクトです。
同じ戯曲『マクベス』を、同じ演出家が、同じ会場で、「回替わり」で2バージョン上演する。片方は京都に拠点を置く地点の俳優による日本語上演、もう片方はモルドバ共和国の首都キシナウにある国立サチリクス劇場の俳優によるルーマニア語上演です。しかも、地点版は昨年2025年5月の初演から「演技・演出のアプローチを変えたもの」が披露されるとのこと。つまり、観客は実質「3つのマクベス」を体験できる可能性があります。
これはシェイクスピア上演としても、国際共同制作としても、極めて異例の企画です。本稿では、この公演がなぜ今、どのような経緯で生まれたのか、そして戯曲『マクベス』を軸に、三浦基という演出家が到達しつつある地点を掘り下げてみたいと思います。
地点とは何者か——「言葉を剥き出しにする」劇団
まず、劇団「地点」について確認しておきます。
地点は、演出家・三浦基が代表を務める劇団です。三浦は1973年生まれ、文化庁派遣芸術家在外研修員としてパリに滞在した後、2001年に帰国し地点の活動を本格化させました。2005年には拠点を東京から京都へ移し、2013年には廃墟状態の元ライブハウスをリノベーションしたアトリエ「アンダースロー」を本拠地としています。固定メンバーによるレパートリー制を採用し、新作とレパートリー上演をコンスタントに続けている、現代日本演劇のなかでも特殊な位置にある劇団です。
地点の演出スタイルは、しばしば次のように説明されます。
既存のテキストを独自の手法によって再構成・コラージュして上演する。言葉の抑揚やリズムをずらし、意味から自由になることでかえって言葉そのものを剥き出しにする手法は、しばしば音楽的と評される。
「意味から自由になることでかえって言葉そのものを剥き出しにする」——この一文に、地点の独自性のほとんどが集約されています。普通の演劇が「台詞を自然に、意味が通じるように」話すのを目指すのに対し、地点は意図的に抑揚をずらし、リズムを分解し、俳優の身体から言葉を切り離してみせる。すると不思議なことに、戯曲のテキストが「意味」としてではなく「音」や「物質」として立ち上がってくるのです。
この手法を支える重要な存在が、スリーピースバンド「空間現代」です。野口順哉(ギター/ボーカル)、古谷野慶輔(ベース)、山田英晶(ドラム)からなるこのバンドは、2006年の結成以来、「編集・複製・反復・エラー」といった発想で楽曲を構築してきました。地点とは『ファッツァー』(ブレヒト)、『ミステリヤ・ブッフ』(マヤコフスキー)、『ロミオとジュリエット』(シェイクスピア)など多くの作品で共同制作を重ねており、今回の『マクベス』でも音楽を担当します。
地点のアプローチは海外からも早くから評価されてきました。2006年にはミラー作『るつぼ』でカイロ国際舞台芸術祭ベストセノグラフィー賞を受賞。2012年にはロンドン・グローブ座から依頼を受け、初のシェイクスピア作品『コリオレイナス』を上演しています。2017年にはイプセン作『ヘッダ・ガブラー』で読売演劇大賞作品賞を受賞しました。
モルドバという土地——なぜ、サチリクス劇場なのか
ここで本公演の鍵となる、モルドバ国立サチリクス劇場について触れておきましょう。
モルドバ国立サチリクス劇場(Teatrul Național SATIRICUS ION LUCA CARAGIALE)は、1990年、モルドバ共和国の首都キシナウに設立された市立の劇場です。設立者はアレクサンドル(サンドゥ)・グレク。彼は、モスクワのサチリコン劇場でコンスタンチン・ライキンに師事していた俳優・演出家でした。「サチリクス」には「風刺」という意味が含まれますが、設立当初から革新的な表現の模索をミッションに掲げ、ヨーロッパ各地の演出家を招いて多彩なレパートリーを揃えてきました。
モルドバという国は、日本の読者にはややなじみが薄いかもしれません。旧ソビエト連邦を構成していた共和国のひとつで、1991年にソ連崩壊とともに独立しました。公用語はルーマニア語で、文化的・言語的にはルーマニアと近い関係にあります。一方で、国内には親ロシア的な地域(沿ドニエストル)も存在し、独立以来、地政学的な緊張を抱え続けてきた国でもあります。
そして、モルドバの隣には——ウクライナがあります。
2022年2月のロシアによるウクライナ侵攻以降、モルドバは数万人規模のウクライナ難民を受け入れてきました。「ヨーロッパ最貧国」と呼ばれる国が、個人宅レベルで難民を抱えているのです。首都キシナウの国立劇場の客席は、戦時下にあって連日満員だといいます。演劇が「不要不急」どころか、生きるために必要な営みとして機能している場所——それがモルドバの劇場文化なのです。
三浦基はこの劇場との縁を、2024年の地点モルドバ公演で得ました。公演を観たサチリクス劇場の監督が、三浦に新作演出を依頼したのです。日本の戯曲を紹介する選択肢もあったようですが、「普遍的な古典をやることで三浦演出の特性を発揮してもらいたい」という意向で、シェイクスピアに絞られました。すでに『ハムレット』はレパートリー入りしていたため、三浦が直感的に挙げたのが『マクベス』でした。すると監督は即座に「今の状況にピッタリだ!」と応じ、演目があっという間に決まったといいます。
戦争モノとしての『マクベス』。王位簒奪、暴力の連鎖、独裁、そして民衆が国境を越えて逃げる物語(マルコムとマクダフはイングランドへ亡命する)。これらのテーマがウクライナ戦争進行中のモルドバで何を意味するか、想像するのは難しくありません。モルドバ版は2026年1月に現地で初演され、同劇場の新しいレパートリー作品となりました。本公演はその日本初披露でもあります。
三浦基の「告白」——なぜ今、シェイクスピアなのか
三浦自身が興味深いことを書いています。地点のウェブマガジン「Beyond Chiten」に掲載された、俳優の薄井快との往復書簡のなかで、三浦はこう告白しています。
私がこれまであまりシェイクスピアを積極的に演出してこなかったのは、この解釈と置き換えの問題が当然のように期待されるからというのが正直なところです。しかし今、こうして戦争が進行形の中、モルドバの国立劇場と関わることになり、私の感覚も少し変わってきていることを告白しなければなりません。
シェイクスピアを現代に「翻訳」する試み——たとえばナチス下に置き換えた『マクベス』や、現代の企業社会に置き換えた『リチャード三世』——は、海外・国内を問わず無数に試みられてきました。しかし三浦は長らく、こうした「安直なアクチュアル化」に距離を取ってきたのです。「上演する時は、下手に現代に置き換えたりしない方が正しいというのが私の演出の態度でした」と彼は書きます。
ところが、戦争下のモルドバの劇場で『マクベス』を演出することになり、三浦の態度は変わります。「堂々とアクチュアルな問題としてやるしかないという気持ちになっているのです」。そして今回の上演に「絶対悲劇」というキャッチコピーを掲げました。これは三浦自身の言葉を借りれば、「戦地から遠くにいる日本の私自身への誓いのようなもの」——「つい茶化しそうになるところを絶対にそちらに行かないようにする」宣言です。
ここに三浦の、そして地点の、重要な態度の変化が刻まれています。意味の解体と再構成を信条としてきた劇団が、戦争という現実の前で、あえて「悲劇を悲劇のまま、絶対の悲劇として」上演しようとしているのです。
2つのマクベス——言語・俳優・空間の多重性
本公演の面白さは、同じ演出家による2バージョンが同じ場所で上演されるという「比較の設計」にあります。
モルドバ版
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 使用言語 | ルーマニア語(日本語字幕付きと予想) |
| 俳優 | モルドバ国立サチリクス劇場の俳優13名 |
| 性質 | 現地劇場のレパートリー作品 |
出演はアレクサンドル・クリロフ、アレクサンドリナ・グレク、ゲオルゲ・グシャン、パヴェル・ルパチェスク、ロマン・マライほか13名。ロシア演劇の薫陶を受けた劇場文化のなかで鍛えられた俳優たちが、三浦の演出をどう身体化しているかが見どころです。モスクワ・サチリコン劇場で学んだ劇場の系譜は、スタニスラフスキー・システムを土台にしながら、より身体的・リズム的な表現にも開かれています。三浦の「言葉を剥き出しにする」演出が、どの程度ルーマニア語の響きと結びつくのか——言語そのものの物質性が舞台に露出するはずです。
地点版
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 使用言語 | 日本語(河合祥一郎訳) |
| 俳優 | 地点のメンバー12名(安部聡子、石田大ほか) |
| 性質 | 2025年初演からアプローチを変えた再構成版 |
地点版の翻訳は河合祥一郎。角川文庫版シェイクスピア新訳の訳者としても知られ、原文のリズムを日本語に移植する試みで評価の高い研究者です。小田島雄志訳と比べて、河合訳はよりコンパクトで切れ味の鋭いリフが特徴です。たとえばマクベス夫人の有名な台詞——
- 小田島訳:「望みはとげても、なんの意味もないわ、心に不安の棘があれば。殺されるもののほうがまだしも気楽だわ、殺して手にいれた喜びに疑惑があれば。」
- 河合訳:「何にもならない、思いを遂げても、満足できなければ。殺して悶々と楽しめぬなら、殺されたほうがまだまし。」
同じ台詞が、翻訳者によってまるで別の呼吸を持ちます。三浦が河合訳を選んだのは、その「切断された」ような短いリズムが、地点の身体の分節と相性が良いからでしょう。
地点メンバーには、創設期から参加する看板女優・安部聡子をはじめ、石田大、小林洋平らが揃います。地点版は2025年5月の初演で全ステージ完売となった人気演目でしたが、三浦は今回「演技・演出のアプローチを変える」と宣言しています。モルドバ版を経てきた三浦の視点が、地点版にも還流する——その反復と差異こそ、本公演の最もスリリングな部分です。
戯曲『マクベス』を読み直す——「怯え」と「罰」の構造
三浦と薄井快の往復書簡には、戯曲『マクベス』の読みとして示唆深いやりとりがあります。
薄井は、マクベス夫妻を「怯え」の存在として捉えます。彼らは何かを手に入れたくて、やってはいけないことをしてしまった。そして罰が、罪に見合うだけの罰が訪れる未来に怯え続けている。この「怯え」の構造は、現代の読者にも生々しく響く——ミャンマー国軍総司令官であれ、未解決事件の犯人であれ、小さな後ろめたさを抱える私たち自身であれ。
三浦はこの読みを受け、重要な問いを投げかけます。マクベスと夫人は、果たしてどんな「罪」を犯したのか。シンプルに「主君ダンカンを殺した」と言ってしまえばそれまでですが、三浦の演出は、おそらくもっと曖昧で複雑な「罪」の輪郭を観客に提示するはずです。王位簒奪は確かに罪ですが、では戦争で人を殺すことは? 独裁者に従わないことは? シェイクスピアの時代、絶対君主の秩序を揺るがす「罪」の重みと、現代の民主主義下における「罪」の重みは、まったく違うはずです。
さらに三浦は、シェイクスピア劇の観客についても鋭い指摘をしています。「シェイクスピアが念頭においていた観客は、私の演出するシェイクスピアには誰一人として見にこない」。王族も、政府高官も、エリザベス朝の民衆も、2026年の日本やモルドバの客席にはいません。だとすれば、現代の私たちが『マクベス』を見るとは、どういう行為なのか——。
この問いこそが、「絶対悲劇」というキャッチコピーの重みを支えています。三浦は、観客の想像力に「茶化すこと」を禁じ、戦時下の悲劇として、しかし現代に置き換えて翻訳するわけでもなく、ただ悲劇を悲劇として提示しようとしているのです。
独自の視点——「反復と差異」の演出論として
ここで戯曲図書館らしい視点をひとつ提示したいのですが、今回の企画は、演劇における「反復と差異」という原理の、極めて純度の高い実験だと受け止めています。
同じ戯曲(『マクベス』)、同じ翻訳(河合祥一郎訳とそのルーマニア語訳)、同じ演出家(三浦基)、同じ音楽(空間現代)、同じスタッフチーム(美術・杉山至、衣裳デザイン・コレット・ウシャールほか)。変わるのは、俳優の身体と使用言語だけです。
このミニマルな差異のなかから、どれだけ異なる『マクベス』が立ち上がるか——これが本公演の問いだと言えます。ロシア演劇の訓練を受けたルーマニア語話者の俳優群と、日本語を分節し続けてきた地点俳優群。両者が同じ台本を身体化したとき、「言葉を剥き出しにする」という地点の演出理念がどう具体化するかは、たぶんまったく違う形を取るはずです。
これは言葉を変えれば、「演出とは何か」「俳優とは何か」「演劇における普遍と特殊とは何か」といった、演劇論の根源に関わる問いの可視化でもあります。三浦が普段の制作では隠している「演出の論理」が、2つの俳優団への演出プロセスを通じて、観客にも読み解けるかたちで露出するわけです。これは稀有な機会です。
関連作品——『マクベス』をもっと深く楽しむために
本公演を観る前後に、以下の作品に触れてみると、より立体的な理解につながると思います。
原作テキスト
- シェイクスピア『マクベス』——翻訳は河合祥一郎訳(角川文庫)、小田島雄志訳(白水Uブックス)、松岡和子訳(ちくま文庫)など多数。河合訳は今回の公演で使われるので、必読。訳の違いを比べると、翻訳の仕事そのものが可視化されます。
地点を知るための作品群
- 地点『コリオレイナス』(2012年ロンドン・グローブ座委嘱)——地点によるシェイクスピア初演。
- 地点『ロミオとジュリエット』——空間現代との共作シェイクスピア。
- 地点『ヘッダ・ガブラー』(イプセン作、2017年読売演劇大賞作品賞)——地点の演出理念が最高度に発揮された代表作のひとつ。
- 地点『るつぼ』(アーサー・ミラー作)——2006年にカイロ国際舞台芸術祭でセノグラフィー賞を受賞した国際評価の原点。
『マクベス』の多様な舞台化
- 蜷川幸雄演出『NINAGAWA・マクベス』——日本におけるシェイクスピア演出の金字塔。桜吹雪のなかの戦国マクベス。
- ピーター・ブルック演出『マクベスの悲劇』——ミニマリズムの極北で描かれるマクベス。
- 黒澤明『蜘蛛巣城』——映画ですが、能の様式を取り入れた日本的翻案の最高峰。戯曲ではなく映画ですが、『マクベス』の変奏として外せません。
モルドバ・ルーマニア語圏の演劇
- イヨネスコ作品群——ルーマニア出身の不条理劇作家(フランス語で執筆)。言葉そのものへの不信を演劇化した点で、三浦演出とも通じるものがあります。
まとめ——「悲劇を悲劇のまま」観ることの意味
戦争下の世界で、同じ戯曲を2つの国の俳優が演じる。しかも「どちらかが優れている」という比較ではなく、「反復のなかの差異」そのものを観客に差し出す。これほどまでに演劇の本質を問いかける企画が、2026年の年末に神奈川と京都で立ち上がります。
三浦基の「絶対悲劇」宣言は、茶化しや皮肉で生き延びてきた現代人のある種の防衛機制を、意識的に手放す試みでもあります。マクベスを「他人事」として距離を取り、「ちょっと滑稽な簒奪者」として笑って見ることはできる。しかし、戦争が隣で進行する国で演劇を続けているモルドバの俳優たちは、おそらくマクベスを笑えないはずです。その身体を日本の観客が目撃する時、私たちは何を受け取るのか。
地点版と交互に見比べれば、日本語話者である自分自身が、どれだけマクベスを「他人事」として扱ってきたかにも気づかされるかもしれません。それこそが、三浦が仕掛けた「絶対悲劇」のもうひとつの罠であり、贈り物でもあるのでしょう。
12月上旬のKAATと京都・アンダースローは、おそらく2026年の日本演劇シーンの最も重要な現場のひとつになります。シェイクスピアを「読む人」「演じる人」「観る人」のいずれにとっても、見逃せない公演だと思います。
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戯曲図書館 編集部
演劇経験者が運営する戯曲検索サービス「戯曲図書館」の編集チームです。 脚本選びのノウハウ、演劇業界の最新情報、公演レポートなどを発信しています。
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