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なぜ『見よ、飛行機の高く飛べるを』は上演され続けるのか──二兎社50から読む、女子学生劇の古典性

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#永井愛#見よ、飛行機の高く飛べるを#二兎社#戯曲#女子学生劇
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二兎社50というニュースが教えてくれること

2027年1月から3月にかけて、二兎社公演50『見よ、飛行機の高く飛べるを』が東京を皮切りに上演されます。今回の報道でとくに重要なのは、単に永井愛の代表作が再演されることではありません。これまで永井自身の演出では上演されてこなかった作品を、二兎社の記念公演として、永井自身が演出するという点です。

この一本は、いわゆる「人気作の再演」に見えて、実際にはもっと大きな意味を持っています。なぜなら『見よ、飛行機の高く飛べるを』は、1997年の初演以来、青年座だけでなく、大学、専門学校、高校演劇、若手ユニットなど、さまざまな現場で繰り返し選ばれてきた戯曲だからです。つまり今回は、過去の名作の回顧ではなく、なぜこの作品が長く使われ続けてきたのかを改めて問い直す好機でもあります。

演劇界には「名作」と呼ばれる作品が多くありますが、読む人が多い作品と、実際に上演され続ける作品は必ずしも一致しません。前者は文学として強い作品、後者は劇場で生き残る作品です。『見よ、飛行機の高く飛べるを』は、その両方にまたがっているところが厄介で、そして魅力的です。


1911年の女子師範学校を、なぜ2026年の観客が自分事として見られるのか

この戯曲の舞台は、1911年(明治44年)の女子師範学校です。時代背景としては、与謝野晶子や平塚らいてうが女性の権利や教育をめぐって言葉を発し始めた時期にあたります。桐朋学園芸術短期大学の公演レポートでも、この作品は第一次フェミニズム運動の時代を背景に、「新しい女」になろうとした女生徒たちと、国家の教育方針を守ろうとする教師たちの軋轢を描くものとして紹介されています。

ここだけ聞くと、やや教科書的な“社会派歴史劇”を想像するかもしれません。ですが、この作品が長生きしている理由は、歴史の説明がうまいからではありません。むしろ逆で、歴史的な争点を、十代後半の身体感覚まで下ろしているからです。

この作品の少女たちは、抽象的に「女性解放」を語る記号ではありません。友だちと笑い、流行に憧れ、教師に腹を立て、空気を読み、少しだけ勇気を出し、そして時に失敗します。そのうえで、自分の進路や言葉が国家や制度に回収されていく怖さに直面します。ここにあるのは立派な理念のドラマではなく、生活の延長線上で思想が立ち上がる瞬間です。だから現代の観客にも届きます。

しかも永井愛は、この作品を単なる架空の青春群像として書いたわけではありません。二兎社の公演案内や関連資料によれば、本作は婦人参政権運動を主導した市川房枝と、永井愛の祖母が愛知県立第二師範女子部で交わした実際の交流を下敷きにしています。高校演劇の現場でも、このモチーフが調べ学習の対象になっており、実際に市川房枝の記念展示室を訪ねた記録まで残っています。つまりこの戯曲は、史実を忠実になぞる伝記劇ではない一方で、現実の女性史と切り離されていないのです。


この作品が古びない理由は、「正しさ」より「揺れ」を書いているから

『見よ、飛行機の高く飛べるを』が学生劇や若手公演で生き残ってきた理由を一言で言うなら、登場人物が“正論の代弁者”で終わらないからです。

時代劇として女性の抑圧を描く作品は少なくありません。しかし、その種の作品はしばしば、抑圧する側とされる側の線が早い段階で固定され、観客が安心して「ひどい時代でしたね」と言えてしまいます。そうなると、歴史劇としては成立しても、現在に刺さる作品にはなりにくいです。

この戯曲はそうなりません。なぜなら、生徒たちの側にも温度差があり、教師たちの側にも迷いがあり、制度を支える人々にもそれぞれの事情があるからです。誰か一人の覚醒が世界を変えるのではなく、複数の小さなためらいと衝突が、ようやく行動を生む構造になっています。ここが、永井愛らしいところです。

永井作品はしばしば社会派と呼ばれますが、本質は説教ではなく会話の設計にあります。『見よ、飛行機の高く飛べるを』でも、観客が胸を打たれるのは、大きな演説よりも、日常会話の中で価値観のズレが露わになる場面です。たとえば、恋愛やスキャンダルに夢中になる友人たちと、もっと大きな世界を見たいと願う人物のあいだに生まれる微妙な距離感です。これは明治の話でありながら、現代の学校や稽古場でもそのまま起きそうな会話です。

だからこの作品は、フェミニズム史の教材である前に、集団の中で少しだけ先に目覚めてしまった人の孤独を描く戯曲として機能します。そして、その孤独は現代にもいくらでもあります。クラスでも、職場でも、劇団でも、価値観の更新には必ず時差があるからです。


なぜ学生劇と相性がいいのか

本作が四半世紀以上にわたって学校や若手の現場で選ばれてきたのは、テーマの強さだけでは説明しきれません。上演する側にとっての“扱いやすさ”と“手応え”の両方があるからです。

1. 年齢の近さが、そのまま演技の強度になること

まず大きいのは、登場人物の中心が卒業間近の女子学生たちだという点です。若い俳優が無理に人生経験を背負い込まずに、現在の身体感覚で役へ入れます。もちろん明治の所作や言葉遣いの研究は必要ですが、感情の核そのものは遠くありません。将来への期待と不安、友人関係の濃密さ、先生への反発と憧れ、集団に合わせたい気持ちと抜け出したい気持ち。こうした揺れは、十代後半から二十代前半の俳優が実感を持ちやすいものです。

2. 群像劇なのに、個々の役が痩せていないこと

学生劇で意外に難しいのは、人数がいても見せ場が偏ることです。その点、この作品は複数の女子生徒と教師たちにそれぞれ役割があり、台詞の密度も比較的均等です。主役だけが突出して強い作品ではないため、チームで作る意味が出ます。桐朋学園の修了公演でトリプルキャストや学年横断の体制でも成立していたことは、この作品の柔軟さをよく示しています。

3. 学校という空間が、演劇的に処理しやすいこと

舞台美術の観点でも、本作は学生劇に向いています。基本空間は学校であり、極端な転換を連発しなくても成立します。その一方で、体操、テニス、整列、談笑、校則、ストライキといった身体的な見せ場が多く、単なる会話劇にもなりません。千葉県立松戸高校の上演が舞台美術賞や衣装賞を受けた記録を見ると、この作品が俳優だけでなくスタッフワークの学習にも向いていることが分かります。

4. 調べるほど、演技が深くなること

この作品のもう一つの強みは、リサーチがそのまま芝居の厚みになることです。市川房枝、青鞜、女子教育、良妻賢母、師範学校制度、明治末の近代化といった周辺知識を調べるほど、人物の台詞が立体的になります。単なる情緒ではなく、「なぜその一言が危険だったのか」「なぜ沈黙が必要だったのか」が見えてくるからです。学生にとっては、上演がそのまま近代史とジェンダー史の学びにもなります。


二兎社50で見たいのは、“正しい演出”ではなく“書き手自身の距離感”

では、2027年の二兎社公演50で何を期待すべきでしょうか。私は、決定版を見たいというより、永井愛自身がこの作品と今どう距離を取るのかを見たいです。

この戯曲が書かれたのは1997年です。その時点でも明治44年からは遠い過去でしたが、2027年から見ればさらに30年が加わります。つまり今回の上演は、明治を描いた1990年代の作品を、2020年代後半の永井が演出するという、二重三重の時間の重なりを持っています。

ここで面白いのは、作品の“主張”を強くすることが必ずしも正解ではない点です。むしろ必要なのは、当時の少女たちの切実さを損なわずに、現代の観客が自分の問題として持ち帰れる速度に調整することです。説教くさくすれば作品は痩せますし、青春のきらめきだけを前景化しても軽くなります。このバランスを、作者自身がどう取るか。そこに今回の最大の見どころがあります。

しかも、二兎社の案内では本作を「永井愛の代表作の一つ」としながら、同時に永井演出では初めてだと打ち出しています。これは自信の表明でもありますが、裏を返せば、長く他者の手に委ねられてきた作品を、自分の演出言語でいま引き取るということでもあります。創作者が自作の古典化にどう向き合うかを見る意味でも、かなり興味深い上演です。


関連して読みたい戯曲・作品

『見よ、飛行機の高く飛べるを』を入口にするなら、次の作品をあわせて読むと視界が広がります。

  • 『ら抜きの殺意』
    同じ1997年の永井愛作品です。こちらは言葉遣いを通して生き方や階層の問題を浮かび上がらせます。『見よ、飛行機の高く飛べるを』が教育制度と女性の主体性を扱うのに対し、『ら抜きの殺意』は現代口語を入口に社会のひずみを見せます。永井愛がなぜこの時期に一気に評価を高めたのかが分かります。

  • 『歌わせたい男たち』
    教育現場と国家、個人の良心の衝突という点で、読み比べる価値があります。時代は違っても、制度の中で教師が何を守るべきかという問いは地続きです。

  • 『ザ・空気』
    同調圧力や場の支配という観点でつながります。『見よ、飛行機の高く飛べるを』にある「友人関係の空気」と「学校制度の空気」が、現代メディア社会ではどう変形するのかを考える手がかりになります。

  • キャリル・チャーチル『Top Girls』
    直接の系譜ではありませんが、女性の生き方と制度の関係を劇的に問う作品として並べて読むと、近代化や成功の意味がまったく違う角度から見えてきます。

『見よ、飛行機の高く飛べるを』の魅力は、女性史の資料性だけではなく、読み手や上演者に「次に何を読むか」を自然に促す入口の広さにもあります。


まとめ

二兎社公演50『見よ、飛行機の高く飛べるを』のニュースは、永井愛の代表作再演というだけでは終わりません。むしろここで改めて見えてくるのは、この戯曲が学生劇、若手公演、教育現場、そして観客の現在感覚に接続し続けてきた理由です。

それは、歴史的に正しいからでも、メッセージが明快だからでもありません。1911年の少女たちを、理念の記号ではなく、揺れながら生きる具体的な人間として書いているからです。そして、その揺れが、2026年の私たちにもまだ切実だからです。

飛行機は明治の空を飛ぶだけではありません。この戯曲が上演されるたびに、教室、稽古場、そして観客席の現在にも飛び直します。二兎社50は、その“飛び直し”を、作者自身の手で確かめる公演になるはずです。


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参考情報源

  • 二兎社 公式サイト「二兎社公演50『見よ、飛行機の高く飛べるを』」
  • メニコン シアターAoi 主催イベントページ「二兎社公演50『見よ、飛行機の高く飛べるを』」
  • ステージナタリー「二兎社・永井愛の代表作『見よ、飛行機の高く飛べるを』に藤野涼子・夏子ら」
  • 桐朋学園芸術短期大学 公演レポート「演劇専攻★55期専攻科修了公演『見よ、飛行機の高く飛べるを』」
  • 千葉県立松戸高等学校 演劇部活動記録

Written by

戯曲図書館 編集部

演劇経験者が運営する戯曲検索サービス「戯曲図書館」の編集チームです。 脚本選びのノウハウ、演劇業界の最新情報、公演レポートなどを発信しています。

公開日: 2026-08-16

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