2027年の『ヨハンナ』がただの古典再演ではない理由
2026年8月20日、世田谷パブリックシアターは、白井晃さん演出・鈴木アツトさん脚本による『ヨハンナ』の全キャストを発表しました。内野聖陽さんが巨大食品企業の経営者モーラーを演じ、対峙する少女ヨハンナ役にsaraさんを迎える企画です。ニュース単体でも十分に大きな話題ですが、本当に面白いのは配役の豪華さより、いまこの題材が選ばれたこと自体にあります。
今回の『ヨハンナ』は、ベルトルト・ブレヒトの『聖ヨハンナ』を下敷きにしながら、20世紀初頭シカゴの食肉市場を、現代の食品産業へと引き寄せて立ち上げる構想だと説明されています。大量生産、大量消費、大量廃棄、雇用の不均衡、格差、そして正義の言葉が巨大システムの中でどう使われるのか。これらは遠い昔の資本主義批判ではありません。むしろ、いまの生活感覚のど真ん中にある論点です。
しかも本作では、原作の30人超の登場人物をわずか6人の俳優が演じ分けるとされています。これは単なる省略ではありません。立場が固定されず、資本を持つ側と持たざる側、救う側と救われる側を身体ひとつで往復させる設計です。現代の不安定な労働と階層の感覚を、配役の構造そのもので可視化しようとしているわけです。この時点で、今回の『ヨハンナ』は「名作をいま風に上演する」程度の企画ではなく、ブレヒトを現代の観客へ再配線する試みだとわかります。
原作『聖ヨハンナ』は何を書いた戯曲なのか
『聖ヨハンナ』は、ブレヒトが1929年から1931年にかけて書いた戯曲です。舞台はシカゴの食肉取引と屠畜場の世界で、主人公は慈善団体に属する少女ヨハンナ、そして彼女が向き合う相手が食肉王モーラーです。信仰や善意を携えた若い女性が、飢えた労働者たちの現実に触れ、やがて慈善だけでは何も変わらないことを知っていく。その過程で、資本の論理、労働者の分断、道徳の利用、指導者への期待と裏切りが露出していきます。
この設定だけ見ると、宗教と資本の対立を描いた寓話のようにも思えます。しかし、この戯曲の本当の怖さは、善と悪をきれいに分けないところにあります。モーラーは単純な怪物ではありません。利潤を最大化する論理に忠実であるがゆえに、多くの人を失業へ追い込みながら、自分の行為を「世界の現実」として処理します。一方のヨハンナも、最初は祈りや施しが人を救うと信じていますが、目の前の飢餓と搾取の前で、その言葉が空転してしまいます。
ここでブレヒトが書いているのは、善意が無意味だという話ではありません。むしろ、善意が仕組みに回収される瞬間こそが主題です。救済の言葉が、結果として労働者を静かにさせ、怒りを鎮め、構造の延命に使われてしまう。そのねじれを描いたからこそ、『聖ヨハンナ』は単なる社会派古典ではなく、いまも痛い戯曲であり続けています。
食肉市場という舞台設定がいまも強いわけ
『ヨハンナ』の現代性を考えるうえで、食肉市場という舞台設定は決定的に重要です。これはたまたまショッキングな場所が選ばれたのではありません。ブレヒトが見ていたのは、命が商品に変換され、流通と価格の論理で整理される現場でした。そこで露出するのは、むき出しの搾取だけではありません。労働、衛生、物流、投機、慈善、広告、消費までが一本の線でつながっている資本主義の全体像です。
この背景を理解する補助線としてよく引かれるのが、アプトン・シンクレアの小説『ジャングル』です。1906年に刊行されたこの作品は、シカゴの食肉加工地帯で働く移民労働者の生活と、危険な労働環境、貧困、腐敗を描いたことで知られます。後世には食品衛生の告発として読まれがちですが、核心は「安く大量に供給される食の裏側で、誰の身体が消耗されているのか」という問いにありました。ブレヒトの『聖ヨハンナ』もまた、食肉産業を通して、商品の背後にある人間の摩耗を舞台化しています。
そして2026年の観客にとって、この構図は決して古びていません。私たちは、スーパーやコンビニで整えられた商品を日常的に手にしますが、その背後にはサプライチェーン、低賃金労働、価格競争、廃棄、輸送、環境負荷が折り重なっています。もちろん2027年の『ヨハンナ』が現代日本の食品企業をそのまま写すわけではないでしょう。しかし、消費者としての私たちが「見えなくしているもの」を浮かび上がらせるという意味で、この題材はきわめて現在的です。
スロベニアのムラディンスコ劇場が近年上演した『Saint Joan of the Stockyards』でも、この戯曲は、金融投機、労働搾取、気候危機、戦争、パンデミックまで同じ病んだ経済システムの帰結として読み替えられていました。つまり世界の現場でも、『聖ヨハンナ』は博物館に飾られた古典ではなく、現在進行形の資本批判として扱われているのです。
今回の日本版が面白いのは「正義」と「世代差」を前面に出していること
世田谷パブリックシアターの公式説明で特に印象的なのは、今回の『ヨハンナ』が「経済と倫理」「世代間の隔たり」「豊かさや働くことをめぐる価値観の断絶」を浮かび上がらせる企画として打ち出されている点です。ここには、原作の資本批判をそのままなぞるだけではない、かなりはっきりした現代化の方向があります。
ブレヒト作品をいま上演する時、しばしば焦点になるのは「資本主義批判としてどれだけ鋭いか」です。もちろんそれも重要です。ただ、2020年代の観客にとって切実なのは、それだけではありません。同じ社会問題を見ていても、世代ごとに「何が正しいか」「どこまで現実的か」「生き残るために何を諦めるか」の基準がかなり違います。
モーラーの側には、巨大システムの内部で成功してきた合理性があります。数字で考え、効率で判断し、例外を全体のために切り捨てる論理です。一方のヨハンナは、そうした合理性の外から、もっと剥き出しの倫理で問いを突きつける存在として立ち上がるはずです。だから二人の対立は、単なる資本家対活動家では終わりません。どの言葉なら他者を動かせるのか、正義は誰のために語られるのか、社会を変える旗は誰が持つのかという、現代の運動論や公共圏の問題にも接続していきます。
4月時点のラインアップ発表で鈴木アツトさんは、この作品を「リーダーと群衆の約束の結び方」をめぐる物語として捉えていると語っていました。これは非常に重要な視点です。社会を良くしたい人がいても、その理想が常にうまく連帯へ変わるわけではありません。誰かが代表になった瞬間に、期待と依存、純化と排除、カリスマ化と裏切りの問題が生まれます。『ヨハンナ』が掘るのは、まさにその危うい接点でしょう。
6人で30人超を演じる構造は、現代の不安定さそのもの
今回の上演で、もう一つ見逃せないのがキャスト構成です。内野聖陽さん、saraさん、朝海ひかるさん、大鷹明良さん、粟野史浩さん、斉藤悠さんの6人が、原作では30人を超える人物群を演じ分けるとされています。
この人数圧縮は、上演上の経済性だけで説明すると薄くなります。むしろ重要なのは、人物の立場を固定せず流動化できることです。資本家、労働者、慈善団体、仲介者、周辺の大衆が少数の身体に重なるとき、観客は「別々の人たちの話」として安全に切り分けにくくなります。
現代社会では、一人の人間が消費者であり労働者であり、ときに管理する側でもあり、別の文脈では切り捨てられる側でもあります。搾取する側とされる側が、人生の局面や所属するシステムによって入れ替わる感覚です。6人で重層的な世界を立ち上げるという今回の方針は、その不安定さを抽象論ではなく、俳優の身体で見せる手法になり得ます。
しかも公式情報では、生演奏も交えるとされています。ブレヒトの戯曲は、歌や音楽が感情移入を単純に盛り上げるためではなく、場面の意味をずらしたり、観客の見方を切り替えたりする装置として機能してきました。もし今回の『ヨハンナ』でもその方向が活かされるなら、ただ「かわいそう」「ひどい」で終わらせない、思考を挟み込む舞台になるはずです。
関連して読みたい戯曲と作品
このニュースを入口にブレヒトを読むなら、『聖ヨハンナ』だけで終わるのはもったいないです。むしろ、いくつかの作品を並べると、今回の『ヨハンナ』がどこに立っているのかが見えやすくなります。
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『三文オペラ』
貧困、犯罪、商取引、道徳が結託する世界を音楽と皮肉で描く代表作です。善悪の境界が資本に飲み込まれる感覚は、『ヨハンナ』と地続きです。 -
『セチュアンの善人』
善くありたい個人が、善いままでは生き延びられないという矛盾を描く作品です。善意がそのまま救済にならない点で、『ヨハンナ』の読後感と強く響き合います。 -
『アルトゥロ・ウイの興隆』
権力と資本、恐怖と扇動がどう結びつくかを、露骨な寓話として押し出した戯曲です。『ヨハンナ』より政治の輪郭は直截ですが、仕組みの暴力を見る目は通じています。 -
アプトン・シンクレア『ジャングル』
戯曲ではありませんが、『聖ヨハンナ』の背景を考えるうえでほとんど必読です。食肉産業の裏側と、移民労働者の消耗がどのように描かれたかを知ると、ブレヒトがなぜこの舞台設定を選んだのかがはっきりしてきます。
日本の観客にとっては、まず『ヨハンナ』の上演ニュースから入り、そこから『三文オペラ』や『セチュアンの善人』へ広げていく読み方がよさそうです。そうすると、ブレヒトが一貫して見つめていたのが「悪人そのもの」よりも、「悪い仕組みの中で善さがどう壊れるか」だったことがよくわかります。
まとめ
2027年の『ヨハンナ』が重要なのは、ブレヒトの古典を保存展示する上演ではなく、食品産業、労働、慈善、正義、世代差という2020年代の論点へ接続し直す企画になっているからです。食肉市場という設定は、命と労働と流通が商品に還元される場所として、いまなお鋭い切れ味を持っています。
今回の日本版では、白井晃さんが積み上げてきたブレヒト演出の経験と、鈴木アツトさんの現代社会への視線が合流します。さらに6人で30人超を演じる構造が加わることで、立場の流動性やシステムのねじれが、かなり身体的に見えてくるはずです。
『ヨハンナ』は、資本家を糾弾して終わる話ではありません。善意がなぜ負けるのか、いや本当に負けているのか、正義の言葉は誰に届き、どこで利用されるのかを問い続ける戯曲です。だからこそ、このニュースは単なる公演情報として流すには惜しいのです。いま『ヨハンナ』が上がるということ自体が、私たちの社会がまだこの問いを解決できていない証拠でもあります。
参考情報源
- 世田谷パブリックシアター『ヨハンナ』公式公演ページ
- 世田谷パブリックシアター2026年度ラインアップ発表
- Mladinsko Theatre「Saint Joan of the Stockyards」
- Project Gutenberg『The Jungle』
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Written by
戯曲図書館 編集部
演劇経験者が運営する戯曲検索サービス「戯曲図書館」の編集チームです。 脚本選びのノウハウ、演劇業界の最新情報、公演レポートなどを発信しています。
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