戯曲図書館
メニュー

© 2024 戯曲図書館

『アンダー・ザ・シャドウ』舞台化はなぜ今なのか──イラン発ホラーが“家の中の戦争”を可視化するまで

15分で読めます
#海外演劇ニュース#Under the Shadow#イラン演劇#ホラー#戦争演劇#戯曲
共有:
広告

いま『アンダー・ザ・シャドウ』を深掘りする理由

2026年6月、ロンドンのAlmeida Theatreで、ババク・アンヴァリの映画『アンダー・ザ・シャドウ』が舞台化されます。公式情報によれば、脚色はカーメン・ナスル、演出はナディア・ラティフ、主演はレイラ・ファルザドです。もともとの映画は2016年に高く評価されたイラン発のホラーで、今回の上演はその世界初舞台化と位置づけられています。

ニュースとして見るなら、「話題のイラン映画が英国で舞台になる」という出来事です。しかし、このトピックの本当のおもしろさはそこではありません。重要なのは、この作品が“怖い怪談”をやっているのではなく、戦争と家父長制と亡命の圧力が、どうやって家庭の内部をホラーに変えていくかを描いている点です。

ホラーはしばしば非現実のジャンルだと思われます。けれど『アンダー・ザ・シャドウ』では、超自然的な恐怖は現実逃避のための装飾ではありません。むしろ逆です。爆撃、検閲、服装規制、学ぶ権利の剥奪、夫の徴兵、近所の退避、母親であることへの圧力。こうした現実の重みが先にあり、その圧力がジンという怪異を呼び込んでしまうように見えるのです。

戯曲図書館の視点で言えば、ここには見逃せない論点があります。演劇は昔から、戦争そのものよりも、戦争が室内に染み込む瞬間をうまく描いてきました。家の中の会話、親子の沈黙、出ていくべきか留まるべきかという葛藤、日用品が突然不穏な意味を帯びる感覚。『アンダー・ザ・シャドウ』の舞台化は、その伝統にホラーの語法を重ねることで、いまの客席に戦争の感覚を届けようとしているように見えます。

私はこの企画にかなり強い必然を感じます。というのも、いま世界では戦争や占領や移動の強制が、再び「遠い国のニュース」では済まなくなっているからです。そうした時代に、ミサイルの恐怖と母娘の密室を結びつけた作品が劇場へ持ち込まれることには、単なる映画の再利用以上の意味があります。


出発点は1988年テヘランの“家の中”でした

Almeida Theatreの公式紹介によると、物語の舞台は1980年代のイラン・イラク戦争下のテヘランです。主人公シデーは、政治活動歴を理由に医学の道から締め出され、夫が前線に送られたあと、幼い娘と二人きりで空爆下のアパートに取り残されます。そこへ、風に乗って古い邪悪なものが入り込んでくる、と作品は語ります。

この設定のうまさは、最初から恐怖の焦点が外ではなく内にあることです。もちろん外では戦争が起きています。ミサイルが飛び、近隣住民は脱出し、空襲警報が日常の一部になります。でも、観客が本当に向き合うのは、爆撃の壮大な再現よりも、家が安全地帯ではなくなっていく過程です。

ババク・アンヴァリは2016年のインタビューで、この物語の発想の火種が母との会話にあったと語っていました。医師だった父が戦時中に前線勤務を強いられ、母は子どもを守ろうとしながらも強い不安を抱え、その恐怖が子どもたちに伝わってしまった、と。ここが大事です。『アンダー・ザ・シャドウ』は、怪異が突然やって来る話ではなく、大人が隠そうとした恐怖が、家庭の中で形を持ってしまう話なのです。

この構図は、ニュースの段階では見えにくい部分です。戦争劇と聞くと、前線、兵士、国家、政治の選択を思い浮かべがちです。しかし本作の中心にいるのは、戦争を決めた人ではなく、戦争の決定を受けて生活を壊される人です。しかも、その人物は「母」である以前に、医師を志し、学ぶ権利を奪われた一人の女性でもあります。

だからこの作品は、単なる戦時サバイバルでも、母性愛ホラーでもありません。シデーの恐怖は、娘を守れないかもしれない恐怖であると同時に、自分の人生が何重にも閉ざされていく恐怖でもあります。家から出にくい。職業的な未来が閉ざされる。夫は不在になる。外の政治は変えられない。そうした閉塞が、部屋そのものを呪いの装置に変えていきます。

私はここに、この作品の強さを感じます。怪異は、現実から浮いたファンタジーではなく、現実に名前を与えるための形式になっているからです。


ジンは“おばけ”ではなく、説明しきれない圧力の比喩です

『アンダー・ザ・シャドウ』を表面的に紹介すると、「ジンに取り憑かれる母娘のホラー」という言い方もできてしまいます。でも、それではあまりにも浅いです。

アンヴァリは制作初期の取材で、中東各地で語られるジンの伝承に触れつつ、「彼らは風に乗って移動する」という感覚と、戦争で飛来するミサイルのイメージが結びついたと説明していました。ミサイルもまた風を切って飛び、人の暮らしを破壊します。つまり本作のジンは、民間伝承の怪異であると同時に、戦争そのものが家庭に持ち込む見えない侵入者でもあります。

この発想はとても演劇向きです。なぜなら舞台は、映画ほど直接的に破壊のスケールを再現できないぶん、気配、音、揺れ、影、反復、空気の変化で恐怖を立ち上げるのが得意だからです。Almeidaの公式ページを見ても、幻影コンサルタントやムーブメント・ディレクターが創作陣に入っていて、今回の舞台版が単なる台詞劇ではなく、身体感覚と視覚効果を重視していることがわかります。

ここで思い出したいのは、ホラーが優れているとき、それはしばしば「説明の失敗」を扱っているということです。なぜこんなことが起きるのか、どこまでが現実でどこからが幻か、本人が疲弊しているのか本当に何かがいるのか。その境界が曖昧になるとき、観客は怪異そのものよりも、説明不能な状態に追い詰められる怖さに巻き込まれます。

『アンダー・ザ・シャドウ』におけるジンもそうです。これは単純に「幽霊が出る」話ではありません。爆撃が続き、睡眠が削られ、近隣の人が去り、子どもは怯え、大人は平静を装いきれなくなる。そうした極限で、人はどこまで合理的でいられるのか。この問いを、ジンという語彙で掴んでいるのです。

Guardianの最新インタビューでも、演出のナディア・ラティフは、ジンを善悪のどちらかに割り切れない存在として幼いころから教わったと語っていました。「悪いことは善い人にも起こる」という祖母の言葉が印象的です。この感覚は重要です。怪異が明確な罰でも教訓でもないからこそ、本作の恐怖は道徳劇になりません。理不尽で、しつこく、逃げ切れない。戦争の感触に近いのは、むしろその理不尽さです。


この作品の核は“母と娘の不和”にあります

『アンダー・ザ・シャドウ』を戦争ホラーとしてだけ読むと、もう一つの重要な層を見落とします。それは母娘劇としての鋭さです。

Guardianの取材では、舞台版でシデーを演じるレイラ・ファルザドが、娘に向ける言葉の鋭さに最初は戸惑ったと語っていました。するとアンヴァリは、それがまさに当時の母の姿だったのだと伝えたそうです。絶望の中で子どもを守ろうとする人が、つねに優しくいられるわけではない。むしろ、追い詰められた状況では、愛情がそのまま苛立ちや命令や拒絶の形で出てしまう。

ここに、この作品が安易な“良い母”像を拒んでいるところがあります。シデーは被害者であり、同時に娘に厳しく当たる加害の側面も持っています。この二重性があるからこそ、物語は急に現代的になります。

演劇では、戦争や抑圧を描くときに、人物が象徴へ寄りすぎることがあります。母は忍耐の象徴、子どもは純真の象徴、国家は暴力の象徴、というふうに整理されてしまうのです。でも『アンダー・ザ・シャドウ』はそこへ流れません。母は娘を守りたいのに、娘の恐怖を受け止めきれない。娘は母を必要としているのに、母を信じきれない。このズレが、怪異の侵入と並行して進みます。

私は、ここが戯曲として特におもしろい部分だと思います。つまりこの作品は、「家の中に何かいるかもしれない」という外的サスペンスだけではなく、「この二人は最後まで同じ現実を共有できるのか」という内的サスペンスでも動いているのです。

しかも、母娘の亀裂は個人的な性格の不一致だけでは説明できません。シデー自身が、自分の中断された人生への怒りを処理できていないからです。医学の道へ戻れない。外の社会では常に監視される。夫は戦場へ行く。そうした不自由の総量が、最も近い相手に向かってしまう。この構造はとても苦いですが、だからこそ現実的です。

演劇にすると、この苦さはさらに前景化されるはずです。映画ではカメラが拾う微細な表情が支えになりますが、舞台では距離があるぶん、台詞のテンポ、身体の向き、触れるか触れないかといった関係の演出が重要になります。うまくいけば、怪異より先に、母娘の間にある空気の冷え方が観客を刺すでしょう。


“出ていくか、残るか”という亡命の問い

この作品のもう一つの重要な軸は、「ここに残るのか、出ていくのか」という選択です。これは単純な避難判断ではありません。もっと根が深い問いです。

Guardianのインタビューでは、ラティフ、ナスル、ファルザドがそれぞれ、自身の家族史を重ねながら、この作品にある滞留と離脱の感覚を語っていました。イラン、レバノン、スーダン、パレスチナ。文脈は違っても、希望を捨てきれずに留まる人と、これ以上は無理だと出ていく人がいる。そしてその判断に、きれいな正解はありません。

ここで『アンダー・ザ・シャドウ』が鋭いのは、残ることを高潔な抵抗としてだけ描かない点です。残るのは勇気でもあり、執着でもあり、見通しの甘さでもあり、生活の制約でもあります。逆に、去ることもまた、裏切りではなく、生き延びるための判断です。

演劇において「去る/留まる」は、とても強いドラマを生みます。なぜなら、それはしばしば土地への愛着、言語への帰属、家族の記憶、将来への責任と衝突するからです。『アンダー・ザ・シャドウ』では、この問いが爆撃と怪異の恐怖の中で極限化されます。家を捨てるのか。故郷を捨てるのか。娘を守るにはどこまで切り捨てるのか。

私は、この作品がホラーであることの意味はここにもあると思います。合理的な避難判断だけを描くなら、別のジャンルでもできるからです。しかしホラーにすると、人が場所に縛られる感情の不合理さまで描けます。怖いのに離れられない。危険だとわかっていても、そこに自分の生活や誇りや記憶がある。ホラーはこの矛盾をうまく扱えるジャンルです。


舞台化でいちばん効くのは“外の戦争を見せないこと”かもしれません

映画から舞台への翻案で気になるのは、何が削られ、何が逆に強くなるかです。『アンダー・ザ・シャドウ』の場合、私は大きな見どころがひとつあると思っています。それは、外の戦争を直接見せすぎないことが、かえって戦争の実感を強める可能性です。

もともとこの作品は、爆撃のスペクタクルを売りにするタイプではありません。空襲は常に重要ですが、それ以上に、戦争が生活をどう変質させるかが焦点です。窓が危ないものになる。廊下の足音が神経を逆なでする。テレビやラジオの情報が不安を増幅させる。服装や所持品が監視の対象になる。子どもの寝つきが悪くなる。こうした細部は、舞台空間のほうがむしろ濃密に届くかもしれません。

英国の戦争演劇の系譜を見ても、大砲や戦車を再現しないことで、かえって戦争の記憶を観客の身体へ渡す作品は少なくありません。たとえば『Black Watch』がそうでした。前線の写実よりも、兵士たちの身体の配置や語りの断片を通して、戦争を客席に発生させた作品です。

『アンダー・ザ・シャドウ』も、同じ方向へ進む余地があります。爆発そのものより、その後に残る静けさ。被害の全景より、家具のわずかなずれ。怪異の明確な姿より、母娘が互いを信じ切れなくなる間。こうしたものを積み重ねたほうが、この作品はたぶん強いです。

Almeidaの上演時間は休憩込みで2時間20分とされています。かなりしっかりした尺です。つまり今回の舞台版は、映画の筋を急いでなぞるよりも、関係の劣化や空間の変質を丁寧に見せる構成を取りやすいはずです。ここは期待したいところです。


関連作品から見えてくる、この作品の立ち位置

『アンダー・ザ・シャドウ』を単独で味わうのももちろんいいのですが、関連する戯曲や作品を並べると、何が特別なのかがもっと見えてきます。

1. 『肝っ玉おっ母とその子どもたち』──戦争が生活の形を壊す劇

ブレヒトの『肝っ玉おっ母とその子どもたち』は、戦場で生き延びる母親を描いた戦争劇の代表作です。もちろん様式も時代も『アンダー・ザ・シャドウ』とは違います。ただ、戦争が理念より先に生活を壊し、家族関係を歪めるという点では、はっきりと響き合います。

『肝っ玉おっ母』では、戦争は巨大な制度であると同時に、日々の商売や選択に食い込んでくるものです。『アンダー・ザ・シャドウ』でも同様に、戦争は遠景ではなく、部屋の温度や親子の会話の質を変える力として現れます。

2. 『Black Watch』──戦争を“再現しない”演劇の系譜

前述の通り、『Black Watch』はイラク戦争を直接再現するのではなく、兵士たちの身体と証言の編集によって記憶を立ち上げました。『アンダー・ザ・シャドウ』がもし舞台版で成功するとすれば、それは爆撃をリアルに見せたからではなく、戦争が人の身体や家庭に残す歪みを、舞台の手法に翻訳できたからでしょう。

その意味で、この二作はジャンルこそ違っても近い場所にいます。どちらも「戦争をどう見せるか」より、「戦争にさらされた人間の感覚をどう渡すか」を問う作品だからです。

3. 『ペルセポリス』──イラン革命後を女性の視点から捉えるもう一つの窓

マルジャン・サトラピの『ペルセポリス』は戯曲ではなくグラフィックノベルと映画で知られていますが、イラン革命後の生活世界を女性の視点から捉える作品として、やはり並べて考えたくなります。政治体制の変化が服装、教育、家庭、亡命へどう作用するかという点で、『アンダー・ザ・シャドウ』と通じる部分が大きいです。

ただし、『ペルセポリス』が成長記として外へ開いていくのに対し、『アンダー・ザ・シャドウ』はむしろ密室へ潜っていきます。この違いが面白いです。同じ歴史の圧力でも、片方は記憶と移動の物語になり、もう片方は室内ホラーになる。形式の違いが、歴史の違う断面を照らしているのです。

4. 『ダーク・ウォーター』──母と子の不安を怪異に変える系譜

Guardianの2016年レビューでも参照されていたように、本作は中田秀夫の『仄暗い水の底から』を思わせるところがあります。母と子の関係、住空間そのものが恐怖へ変わる構造、目に見えない不安がじわじわ物質化していく感じです。

ただし『アンダー・ザ・シャドウ』がそれと違うのは、怪異の背景に、より明確な戦争と国家の圧力があることです。個人的トラウマではなく、政治的現実がホラーの構造そのものに埋め込まれている。この点で、本作はかなり稀有です。


戯曲図書館の読者にとっての読みどころ

このトピックを戯曲図書館で扱う意味は、単に「海外で面白そうな舞台が始まるから」ではありません。書く人、演じる人、読む人にとって学べるところが多いからです。

第一に、政治的なテーマを、家庭内のドラマへ落とし込む方法です。大きな問題を大きな言葉で説明するだけなら論説で足ります。けれど演劇は、娘が眠れないこと、母の声がきつくなること、ドアの開閉が怖くなること、そういう細部から政治を立ち上げられます。『アンダー・ザ・シャドウ』は、その好例です。

第二に、怪異を比喩として使いながら、比喩だけで終わらせない方法です。ジンは戦争の象徴です、と解説してしまえば簡単です。でも本作では、ジンは象徴でありつつ、本当にそこにいるかもしれない存在としても扱われます。この二重性があるから、客席は思想の図式ではなく体感として恐怖を受け取れます。

第三に、女性主人公を聖女にも被害者記号にも固定しないことです。シデーは抑圧される人物でありながら、娘にとっては不安定で怖い存在でもあります。この複雑さが、作品を一段深くしています。

日本の演劇でも、政治的状況と家族の距離感をどう結びつけるか、ホラーを単なるジャンル遊びにせず社会の感覚へ接続できるか、という課題はまだまだ掘りがいがあります。そういう意味でも、『アンダー・ザ・シャドウ』の舞台化は、単発の話題で終わらせるには惜しい題材です。


まとめ

『アンダー・ザ・シャドウ』の舞台化がいま面白いのは、イラン発ホラーが英国に輸入されたからではありません。本当に重要なのは、この作品が戦争、家父長制、母娘の不和、亡命の葛藤といった現実の圧力を、ホラーという形式で可視化していることです。

ミサイルが飛ぶ外の世界と、眠れない子どもがいる内の世界が地続きであること。国家の決定が、家の中の空気を変えてしまうこと。守るはずの場所が、最も不穏な場所へ変わってしまうこと。『アンダー・ザ・シャドウ』は、その怖さをとても正確に掴んでいます。

ナタリーのニュースだけを読むと、これは「話題の舞台化」です。ですが少し掘るだけで、ここには現代演劇にとってかなり大きな問いが隠れています。ホラーは何を照らせるのか。戦争はどこまで家庭の内部を書き換えるのか。劇場は、その感覚をどう客席へ渡せるのか。

今回のAlmeida版が成功するなら、それは映画の恐怖を忠実に再現したからではなく、家の中に染み込んだ戦争を、舞台の時間と空間へうまく置き換えられたからでしょう。私はそこに、この舞台化のいちばん大きな価値があると思っています。


関連記事

Written by

戯曲図書館 編集部

演劇経験者が運営する戯曲検索サービス「戯曲図書館」の編集チームです。 脚本選びのノウハウ、演劇業界の最新情報、公演レポートなどを発信しています。

公開日: 2026-05-31

関連記事

← ブログ一覧に戻る
共有: