いま『ジャイアント』を深掘りする理由
2026年春、マーク・ローゼンブラット作の『Giant』がブロードウェイへ渡りました。ステージナタリーの紹介によれば、この作品は2024年のロンドン初演を経て、ローレンス・オリヴィエ賞で作品賞、ジョン・リスゴーの主演男優賞、エリオット・リーヴィーの助演男優賞を獲得した話題作です。公式サイトでも、本作は「ロアルド・ダールの遺産を揺るがせた“真実のスキャンダル”」を描く劇として打ち出されています。
ここで面白いのは、この劇が単なる文豪評伝でも、暴露ものでもないことです。題材は世界的児童文学作家ロアルド・ダールですが、舞台で本当に問われるのは、優れた作品を生んだ作家の醜さと、私たちはどう向き合うのかという問題です。
近年、映画・文学・演劇のどの分野でも、「作品と作者は分けて考えられるのか」という問いは避けて通れなくなっています。ただ、この種の議論はSNSではすぐに二択になりがちです。完全に切り離すか、完全に断罪するか。しかし演劇は、その二択のあいだにある居心地の悪さを、そのまま劇にできるメディアです。『ジャイアント』が強いのは、まさにそこです。
この作品は、ロアルド・ダールを擁護するための劇でも、単純な告発劇でもありません。むしろ、彼の才能を知り、彼の本を愛し、同時に彼の発言に傷つき怒る人たちが、一つの部屋に閉じ込められたとき何が起こるのかを見せます。つまりこれは、作者論ではなく、読者・編集者・共同制作者たちの修羅場を描く劇なのです。
『ジャイアント』が扱う“1983年の昼食会”
ステージナタリーやGuardianのレビューによると、『ジャイアント』の舞台は1983年夏のロアルド・ダールの自宅です。発端となるのは、ダールがイスラエルのレバノン侵攻を批判する中で、反ユダヤ主義的な言辞を含む文章を書いたことでした。周囲は火消しに動き、彼に謝罪や修正を促そうとします。そこへユダヤ系の出版関係者が現れ、空気は一気に張り詰めます。
ここで重要なのは、この劇が法廷劇ではないことです。証拠を並べて有罪判決を下す話ではありません。舞台は台所や食卓に近い空間で、会話がじわじわと相手を追い詰めます。Guardianはこの劇を「最初はドローイングルーム・ドラマのように始まり、やがてダールの怪物たちのように暗く鋭いものになる」と書いていました。この説明はかなり本質的です。
つまり『ジャイアント』は、発言の是非だけを争う劇ではなく、誰もがダールの才能をすでに知ってしまっている状態で、その人物の醜さをどう受け止めるかを描く劇なのです。だからこそ、議論が単純な糾弾では終わりません。彼の周囲には、彼の本を世に出してきた人々、彼を商業的にも文化的にも支えてきた人々がいます。彼らは加害的言説を止めたい一方で、ダールという巨大な作家を失いたくもない。その矛盾が劇の燃料になっています。
私はここに、この作品の脚本としての妙を感じます。大きな歴史や思想を扱いながら、中心にあるのは出版現場の会話だからです。誰がどこまで反論するか、どの瞬間に沈黙するか、相手の才能への敬意がどこで恐れに変わるか。そうした細部に、権力がにじみます。
ロアルド・ダールという“厄介な巨人”
この劇を理解するには、ダール本人の位置づけを避けて通れません。『マチルダ』『チャーリーとチョコレート工場』『おばけ桃が行く』『BFG』『魔女がいっぱい』など、ダール作品は世界中の子ども読者の想像力を作ってきました。しかもそれらは読書体験にとどまらず、映画化、舞台化、ミュージカル化を通じて、何度も再生産されてきました。
とりわけ演劇の文脈では、『マチルダ』の存在が大きいです。デニス・ケリー脚本、ティム・ミンチン作詞作曲によるミュージカル『マチルダ』は、ダール作品が現代の舞台言語へ見事に翻訳されうることを示しました。子どもの反抗、理不尽な権力への抵抗、言葉と想像力の武器化というダール的な魅力は、舞台にすると驚くほど強い推進力を持ちます。
だから厄介なのです。ダールは「名作を書いたが私生活に問題のあった人」という程度ではありません。いまもなお新しい観客を生み続ける巨大な文化資源の中心にいる人物です。彼の作品を愛している人ほど、彼の反ユダヤ主義的発言に直面したときのショックも大きいはずです。
BBCが2020年に報じたように、ダールの家族とロアルド・ダール・ストーリー・カンパニーは、1983年と1990年の反ユダヤ主義的発言について正式な謝罪を出しました。声明では、そうした発言が「私たちの知る彼とも、物語の中心にある価値観とも著しく対立する」とされています。裏を返せば、遺族側もまた、作品の価値と作者の言葉が激しく衝突していることを認めざるをえなかったわけです。
『ジャイアント』は、その衝突がすでに“後から整理された問題”ではなく、まさに火がついた瞬間に何があったのかを劇にしています。ここが重要です。歴史的評価が定まった後の回想ではなく、まだ誰も正しい距離を取れていない最中の混乱を描いているのです。
この劇の本質は「謝るかどうか」ではない
表面的には、『ジャイアント』はダールが謝罪するか、しないかの劇に見えるかもしれません。しかし本質はそこだけではありません。もっと大きいのは、才能のある人間に、周囲がどこまで“待ってしまう”のかという問題です。
出版者は、彼の発言の危険性を理解していても、まずは穏便な修正を望みます。友人は、彼の偏見を見ながらも、全人格を怪物化することにはためらいます。読者や観客も同じです。子どものころに救われた本を書いた人を、一挙に「読む価値なし」と切り捨てることは簡単ではありません。
この“ためらい”を、SNSではしばしば弱さや偽善として切って捨てます。しかし演劇は、そのためらいをこそ扱うべき場所です。なぜなら、人が他者と本当に縁を切れない理由、正しさだけでは判断できない理由は、たいてい会話と関係の中にあるからです。
Guardianのレビューでも、劇中のダールは単純な怪物としては描かれていないと指摘されていました。理性的で、チャーミングで、遊び心があり、同時に明白な偏見を抱えている。そこが厄介です。観客が嫌悪だけで距離を取れないように設計されているからこそ、彼の発言の毒性がいっそう重く響きます。
私はこの設計をとても演劇的だと思います。最初から悪役然とした人物を置くよりも、魅力がある人物が自分の偏見を手放せない瞬間のほうが、客席はずっと深く揺さぶられます。観客は「こんな人だとは思わなかった」ではなく、「この魅力とこの醜さが同居してしまうのか」と突きつけられるからです。
戯曲として見ると、これは“台詞の温度差”の劇です
『ジャイアント』をニュースとしてではなく戯曲として見たとき、いちばん面白いのは議論のテーマよりも、台詞の温度差だと思います。
ある人物にとっては政治の話でも、別の人物にとっては生身のアイデンティティの話です。ある人物にとっては「言いすぎた」程度の言葉でも、別の人物にとっては歴史的暴力に連なる言葉です。この温度差が同じテーブルの上に乗ると、会話は簡単に破裂します。
社会派の新作劇は、しばしば論点をわかりやすく整理しすぎてしまいます。どちらが正しいか、何が争点か、作者がどちらを支持しているかが早めに見えてしまうのです。けれど『ジャイアント』は、議論のフレームそのものが一致しない不快さを使っています。ここが強いです。
しかも、相手を論破したからといって問題は終わりません。ダールの作品はすでに世にあり、愛読者もいる。出版社の利害もある。謝罪ひとつで帳消しになる話ではない。つまり劇の緊張は、勝敗ではなく、関係が壊れたあとに何が残るのかへ向かいます。
この構造は、演劇にとても向いています。演劇は本来、正解の提示より、同じ空間にいられなくなる瞬間を見せるのがうまいからです。
関連作品から見えてくるもの
このトピックを戯曲図書館の視点で掘り下げるなら、『ジャイアント』単体で終わらせないほうが面白いです。関連作品を並べると、この劇がどこに立っているかが見えやすくなります。
1. 『マチルダ』──ダール作品そのものの生命力
まず最初に挙げたいのは、やはりミュージカル『マチルダ』です。これは『ジャイアント』と反対側からダールに触れる作品です。理不尽な大人に言葉と知性で立ち向かう子どもの物語は、いまなお瑞々しい力を持っています。
だからこそ『ジャイアント』は効きます。もしダール作品がすでに古びていたなら、この劇は単なる文豪スキャンダル劇で終わっていたでしょう。ですが現実には、ダールの物語は今も客席を熱狂させます。そのこと自体が、『作品と作者をどう考えるか』という問いを鋭くしているのです。
2. 『ウィッチズ』『チャーリーとチョコレート工場』──怪物を描く作家が、自ら怪物化される皮肉
ダール作品には、残酷さ、選別、子どもの視線から見た大人の醜悪さがしばしば登場します。『魔女がいっぱい』も『チャーリーとチョコレート工場』も、毒のあるユーモアが強烈です。『ジャイアント』のおもしろさは、そんな“他者の醜さ”を書いてきた作家本人が、舞台上で逆に観察される側に回ることです。
この反転によって、観客は自然にダール作品の語り口まで思い出します。人を奇怪にデフォルメする視線は、どこから来ていたのか。あの残酷な笑いは、単なる文学技法だったのか。それとも作家の世界観とつながっていたのか。劇はそこを断定しませんが、考えずにはいられなくします。
3. 『アマデウス』──天才と倫理の距離
ピーター・シェーファーの『アマデウス』は、才能そのものが周囲にどう受け止められるかを描いた代表作です。もちろん題材はまったく違いますが、天才の魅力と不快さが同居し、周囲がその力に引き寄せられながら傷つけられるという点で、『ジャイアント』と通じるところがあります。
『ジャイアント』は、天才礼賛ではなく、天才の周辺で働く人々の倫理を前景化したところが現代的です。もし『アマデウス』が“神に愛された才能”の劇なら、『ジャイアント』は“才能のある人間に、私たちはどこまで甘くなるのか”という劇です。
4. 『インク』──出版と権力の劇
ジェームズ・グレアムの『Ink』は、メディアと権力の結びつきをテンポよく描いた傑作です。『ジャイアント』もまた、作家個人の問題に見えて、実は出版という制度の問題を抱えています。誰が止められたのか、誰が利益を優先したのか、なぜその言葉が流通してしまったのか。こうした問いは、個人の道徳だけでは終わりません。
この意味で『ジャイアント』は、文学者の私生活劇であると同時に、文化産業の劇でもあります。ここがとても現代的です。
日本の観客・書き手にとって何がヒントになるか
日本でも、作品と作者の問題は珍しくありません。ただし、それが十分に戯曲化されてきたかというと、まだ余地が大きいと思います。スキャンダルを報道として処理することはあっても、その周囲にいた編集者、制作者、俳優、読者のためらいまで含めて舞台にする例は多くありません。
『ジャイアント』が示しているのは、論争の“正しい答え”よりも、論争の現場そのものが劇になるということです。しかも、そこで重要なのは大演説ではありません。何気ない失言、言い直し、沈黙、誰かが場を和ませようとして失敗する瞬間です。そうした細部に、権力と恐れと依存が出ます。
戯曲を書く立場から見ても、かなり学ぶところがあります。社会問題を大きな抽象語で語るのではなく、会話の手触りに落とし込むこと。人物を正義の代弁者にしすぎないこと。相手の嫌な部分だけでなく、魅力まで書いてしまうこと。そのほうが、観客は逃げられません。
私はこの点で、『ジャイアント』は“炎上案件を舞台にした劇”ではなく、いまの時代の会話劇の手本になりうると思っています。問題の大きさより、部屋の中の力学を書く。その積み重ねが、結果として社会の輪郭を浮かび上がらせるからです。
まとめ
『ジャイアント』が刺さるのは、ロアルド・ダールの反ユダヤ主義を暴いたからだけではありません。もっと本質的なのは、優れた作品を愛してしまった人たちが、その作者の偏見とどう向き合うのかを、逃げずに劇にしたことです。
ここでは「作品と作者は分けるべきか」という問いに、きれいな正解は出ません。むしろ、『分けたい』『でも分けきれない』『それでも被害は現実にある』という矛盾が、そのまま客席に渡されます。だから後味が悪いのです。そして、その後味の悪さこそが、この劇の価値です。
演劇は、ときどきニュースより遅いです。でも、その遅さのおかげで、私たちは断罪や擁護の一言で済ませてしまった問題を、もう一度ちゃんと眺め直せます。『ジャイアント』はまさにそういう劇です。ロアルド・ダールの伝記を観るつもりで行くと、たぶんもっと面倒で、もっと大事なものを持ち帰ることになるはずです。
関連記事
Written by
戯曲図書館 編集部
演劇経験者が運営する戯曲検索サービス「戯曲図書館」の編集チームです。 脚本選びのノウハウ、演劇業界の最新情報、公演レポートなどを発信しています。
関連記事
『Liberation』のピューリッツァー受賞は何を照らしたのか──1970年代フェミニズム演劇の系譜をいま読み直す
ベス・ウォール『Liberation』の2026年ピューリッツァー賞演劇部門受賞を起点に、1970年代のコンシャスネス・レイジング、フェミニズム演劇の系譜、関連戯曲まで掘り下げます。
2026-05-23
『黒いチューリップ』再演は何を引き継ぐのか──唐十郎×蜷川幸雄の交差点を読み直す
新宿梁山泊による『黒いチューリップ』再演を起点に、唐十郎と蜷川幸雄の協働、アングラから大劇場への越境、関連戯曲の系譜まで掘り下げます。
2026-05-25
『あの空は青いか?』にいま向き合う――福田善之追悼会から考える、問いの演劇
福田善之を偲ぶ夕べ『あの空は青いか?』を手がかりに、戦後日本演劇における“問いの演劇”の系譜をたどり、戯曲を読む意味を掘り下げます。
2026-05-19
無料で読める現代劇おすすめ8選|まず読むべき日本の戯曲ガイド
戯曲図書館で読める無料の現代劇から8作品を厳選。あらすじ、魅力、上演ポイント、選び方をまとめて紹介します。
2026-05-18