5つの結末というニュースの本当の面白さ
BBCの人気番組『The Traitors』が、2027年にロンドンのギリアン・リン劇場で舞台化されます。しかも今回は、単にテレビ番組を演劇に置き換える企画ではありません。公式サイトによると『The Traitors – Acts of Betrayal』は5本の新作劇のサイクルとして作られ、月曜から金曜まで同じ始まりから別々の結末へ分岐します。さらに土曜公演では、観客が「誰が裏切り者のマントを羽織るか」を選び、その選択によってその場で上演内容が決まります。
この企画の面白さは、話題作の舞台化という一点ではありません。むしろ重要なのは、観客が知っている人気フォーマットを、劇場ならではの“たった一度きりの選択”へ変換していることです。
テレビの『The Traitors』は編集によって緊張を高める作品です。誰が何を隠し、どの会話が伏線になり、どの裏切りが決定的だったのかを、視聴者は後から振り返れます。しかし舞台は違います。そこでは編集がありません。目の前の俳優の沈黙、視線、間違った疑い、偶然のように見える一言が、その夜の空気と一体になって流れていきます。
だからこそ、このニュースは「人気番組の舞台化」よりも、演劇がいま改めて観客の判断を物語の構造に組み込もうとしている出来事として読むほうが面白いです。
公式発表が示す、テレビではできないこと
公式サイトはこの企画を「One Beginning, Many Endings」と打ち出しています。月曜から金曜までは同じ出発点から5つの異なる勝敗が生まれ、あるバージョンでは早々に追放される人物が、別のバージョンでは勝者になると説明されています。ガーディアン紙の報道でも、脚本のジョン・フィネモアが「一つの版で最初に退場した人物が、別の版では中心人物になり得る」と語っていました。
ここで大切なのは、分岐が単なるおまけではないことです。インディペンデント紙は、この5本がそれぞれ単独でも満足できる完結した劇でありながら、複数回観ることで人物像が立体化する設計になっていると伝えています。つまりこれは「AエンドとBエンドがある作品」ではなく、同じ前提条件から人間関係と運命の配列をずらし続ける実験です。
この発想は、演劇に向いています。なぜなら劇場は、観客が「この人をもっと見たかった」「もし別の人物が選ばれていたら」と考える余白を、映画やテレビ以上に強く残すメディアだからです。舞台では、脇役のちょっとした呼吸や、群像の端にいる人物の表情が、思いのほか記憶に残ります。その残像を、次のバージョンで本当に主役級の線へ引き上げる。そこにこの企画の演劇的な野心があります。
観客参加型サスペンスの長い系譜
この試みがまったくの新発明かというと、そうではありません。むしろ『The Traitors』は、観客が結末の責任を部分的に負う演劇の長い系譜の上にあります。
もっともわかりやすい先例が『Shear Madness』です。ナショナル・コメディ・ホール・オブ・フェイムの紹介によると、この作品では観客が登場人物に質問し、手がかりを整理し、最後に誰が犯人かを投票で決めます。しかもその結果に応じて、毎晩結末が変わります。重要なのは、ここで観客がただ盛り上がるだけではなく、「自分たちの判断が上演結果を決めた」という感覚を持ち帰ることです。
さらにさかのぼると、1930年代のアイン・ランド作『The Night of January 16th』があります。コミュニティ・プレイヤーズのアーカイブによれば、この法廷劇では観客席から陪審員が選ばれ、有罪か無罪かを決め、その評決によってエンディングが変わりました。つまり、観客が結末に関与する発想自体は、現代のイマーシブシアターよりずっと前から存在していたわけです。
ただし、『The Traitors』の新しさは、ここからさらに一歩進んでいる点にあります。『Shear Madness』や『The Night of January 16th』が主に「犯人」「評決」という最終判断に観客を参加させていたのに対し、『The Traitors』は物語の途中で誰が裏切り者として設定されていたかという、もっと構造的な層を動かします。結果として変わるのは犯人当ての答えだけではありません。人物同士の同盟、疑念の向き、脇役の価値、観客の感情移入の位置まで変わります。
これはかなり大きな違いです。終幕だけを変える作品では、途中までのドラマはほぼ同じまま残ります。しかし『The Traitors』が目指しているのは、途中のドラマそのものを別ルートにすることです。言い換えると、観客参加型ミステリーから、観客参加型の人物劇へ重心が移っているとも言えます。
なぜ今、この形式が刺さるのか
私はこの企画が今の観客に強く響く理由は三つあると思います。
1. 配信時代の観客は「一回限り」に飢えていること
私たちは普段、配信で何度でも見返せる物語に囲まれています。巻き戻しも、考察動画も、SNSでの答え合わせもあります。その一方で、劇場には「その夜しか起きないこと」への欲望がむしろ高まっています。
『The Traitors』の5バージョン構成は、この欲望に正面から応えています。どの回を観たかによって、あなたの知っている『The Traitors』が違ってくるからです。これはネタバレを避けるための仕掛けではなく、体験そのものを複数形にする発想です。
2. 観客が受け身ではなく、共犯者になりたいこと
近年のイマーシブシアターや参加型公演が支持される理由の一つは、観客が「見届けた」だけではなく、「関わってしまった」と感じたいからです。
ただし、全員が本格的な没入型演劇を好むわけではありません。会場内を歩き回る形式や、俳優と直接やり取りする形式は、ハードルが高いと感じる人もいます。その点、『The Traitors』はプロセニアムの商業演劇に近い見やすさを保ちながら、土曜公演では観客の選択を構造に入れます。これは、イマーシブ未満・受け身以上のちょうどよい参加感を狙っているように見えます。
3. 物語よりも「関係の分岐」が面白い時代であること
近年の観客は、犯人が誰かという答えそのものより、「もし別の人物があの立場だったら何が起きたか」に強い関心を持っています。ゲーム文化、マルチバース的な物語、分岐型ドラマに慣れた感覚です。
『The Traitors』はこの感覚を舞台に持ち込みます。裏切り者が変われば、誰が信じられ、誰が追放され、誰の弱さが露出するかも変わります。ここで主役なのはトリックではなく、圧力のかかった共同体で人間の輪郭がどう変形するかです。
戯曲として見ると、どこがそんなに難しいのか
インディペンデント紙でフィネモアは、この仕事を「これまでで最も難しい執筆」と語っています。これは誇張ではないはずです。
普通の群像劇でも、各人物に説得力ある欲望と変化を与えるのは大仕事です。ところが今回は、同じ始まりを持ちながら、5本分の異なる配置を成立させなければなりません。しかも、どの版を先に観ても置いていかれず、一夜の芝居として満足できなければいけません。
脚本上の難しさは少なくとも三つあります。
一つ目は、人物の核を固定したまま運命だけを変えることです。別バージョンになったからといって性格まで別人になってしまうと、作品世界が崩れます。逆に同じまま過ぎると分岐の意味が薄れます。
二つ目は、伏線の再配置です。ある版では無意味に見えた一言が、別の版では致命的なヒントになる必要があります。これは映像編集ではなく、生の上演で行うのでさらに厄介です。
三つ目は、俳優の演技設計です。同じ役が別バージョンで被害者にも加害者にもなり得るなら、俳優は一本の心理線だけで演じられません。どの版でも通用する人物の芯と、その版特有の駆動力を両立させる必要があります。
ここまでくると、これはただの話題作ではなく、かなり本格的な戯曲工学です。戯曲を書く人にとっても、観る人にとっても興味深いのはこの部分です。
関連して読みたい作品
このニュースをきっかけに読むなら、関連作品はかなり豊かです。
まず挙げたいのは、やはり**『The Night of January 16th』**です。観客が評決を下し、その判断が結末を左右する法廷劇として、参加型ドラマの古典的な入口になります。
次に**『Shear Madness』**です。観客が登場人物に質問し、上演そのもののリズムに介入する快楽がよくわかります。参加型サスペンスがなぜ長く愛されるのかを知るには最適です。
そして、少し角度を変えるならイマーシブシアター全般も参照したいところです。観客がどこに立つか、誰を追うかで見える物語が変わる形式は、『The Traitors』の複数バージョン構造と相性が良いです。完全な回遊型でなくても、観客の選択が観劇体験を分岐させるという考え方は共通しています。
戯曲図書館の読者にとっては、ここを「新しいギミック」として消費するより、観客の判断をどこまで作品内部に組み込めるかという脚本上の問題として読むと面白いはずです。学校演劇や小劇場でも、全編を分岐させずとも、観客の視線や解釈が揺れるように人物配置を設計することはできます。
日本の演劇にとっての示唆
日本でも近年は、イマーシブ作品、謎解き型イベント、観客参加の朗読劇など、受け身ではない観劇体験が少しずつ広がっています。ただ、商業演劇の大きな枠組みの中で、ここまで露骨に「結末の複数化」を前面に出した企画はまだ多くありません。
だからこそ『The Traitors』の舞台化は、日本の作り手にも示唆があります。ポイントは「客席いじりを増やすこと」ではありません。そうではなく、同じ設定でも人間関係の置き方ひとつで劇がまったく違う顔になるという事実を、商業規模で見せようとしていることです。
演劇は一回性の芸術だとよく言われますが、その一回性は上演ミスやアドリブだけを指すのではありません。本当は、誰に照明が当たり、誰が疑われ、観客が誰の沈黙を重大だと感じたかという、解釈の分岐もまた一回性です。『The Traitors』はそこを、もっと構造的に可視化しようとしています。
もしこの企画が成功すれば、今後は「原作ものをどう再現するか」だけでなく、「劇場だからこそどこを分岐させるか」という発想が、舞台化の新しい基準になるかもしれません。
まとめ
『The Traitors – Acts of Betrayal』の5つの結末は、単なる宣伝文句ではありません。これは、テレビ的なサスペンスを演劇へ移すときに、何を失い、何を得るかを真剣に考えた末の答えです。
その答えは、編集の代わりに上演の一回性を使うことでした。正解を見せる代わりに、別の可能性を並べることでした。そして観客を外側の推理者ではなく、ある夜の勝敗を左右する当事者へ少しだけ近づけることでした。
観客参加型サスペンスの歴史は古いです。しかし『The Traitors』が面白いのは、その伝統を引き継ぎながら、犯人当てよりも人間関係の分岐そのものを見せようとしている点です。
演劇は、同じ台本を毎晩上演しても、毎回少しずつ違う芸術です。今回の企画は、その「少し違う」を、ついに作品コンセプトの中心へ押し出しました。そこに私は、かなり新しい時代の匂いを感じます。
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戯曲図書館 編集部
演劇経験者が運営する戯曲検索サービス「戯曲図書館」の編集チームです。 脚本選びのノウハウ、演劇業界の最新情報、公演レポートなどを発信しています。
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