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『KOTATSU』がフランスへ渡る理由|平田オリザとパスカル・ランベール、こたつから始まる国際共同制作

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#KOTATSU#平田オリザ#青年団#パスカル・ランベール#国際共同制作#現代口語演劇

目次9項目開く
  1. 1.『KOTATSU』のフランス上演は、再演ではなく共同制作の続きです
  2. 2.2021年の創作から2026年のフランス上演まで
  3. 3.なぜ「こたつ」が国際共同制作の中心になったのでしょうか
  4. 4.平田オリザの現代口語演劇と、ランベールの長い対話
  5. 5.翻訳の問題は、言葉よりも「自然さ」にあります
  6. 6.国際共同制作は、日本文化の輸出ではありません
  7. 7.関連する戯曲を読むなら『東京ノート』と『愛のおわり』
  8. 8.俳優と演出家にとって『KOTATSU』が示すこと
  9. 9.まとめ――こたつの内側から、演劇の国際性を考える
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『KOTATSU』のフランス上演は、再演ではなく共同制作の続きです

青年団とパスカル・ランベールによる『KOTATSU』が、2026年11月25日から28日まで、フランス・レンヌの国立ブルターニュ劇場(TNB)で上演されます。フランス語に翻訳された日本の戯曲が、海外の俳優によって紹介される公演ではありません。日本語を話す青年団の俳優たちが出演し、フランスの劇作家パスカル・ランベールが書いた作品を、平田オリザが共同演出と日本語監修という立場から支えます。フランスでは日本語上演・フランス語字幕となる予定です。

ニュースとしては「青年団の作品がフランスで初上演される」という一行で紹介できます。しかし、『KOTATSU』を戯曲の視点から見ると、もっと重要な出来事が見えてきます。それは、作品が国境を越えるとき、言葉を置き換えるだけではなく、俳優の身体、家族の距離、会話の速度、観客の知識まで含めて作り直されるということです。

タイトルの「こたつ」は、日本の生活文化を海外へ説明するための小道具ではありません。家族が同じ場所に集まりながら、全員が同じ気持ちを共有しているわけではないという状態を、舞台上に置くための装置です。温かさと窮屈さ、親密さと逃げ場のなさが同時に存在する。その矛盾を中心に据えたからこそ、『KOTATSU』は日本文化の紹介を越えて、国際社会の家族劇になっています。

2021年の創作から2026年のフランス上演まで

『KOTATSU』は、2021年に国際交流基金、青年団の拠点であるこまばアゴラ劇場、フランスのstructure productionなどによる国際共同制作として作られました。パスカル・ランベールが日本の俳優のために初めて書いた戯曲であり、平田オリザ、青年団の俳優・スタッフとの協働を通じて形になった作品です。初演は2021年9月、兵庫県豊岡市の江原河畔劇場で行われました。

ただし、2021年に完成した作品が、数年後にそのままフランスへ輸出されたと考えると、創作の経緯を見失います。公式資料では、ランベールと平田の交流は約20年にわたると説明されています。2013年には、ランベールの『愛のおわり』日本版の創作に平田が関わり、そこで「こたつ」という言葉が作品の記憶に残りました。ランベールのフランス語の台詞を日本語に置き換える作業のなかで、平田がこたつを使った表現を提案したことが、後の作品の出発点になっています。

つまり、『KOTATSU』は、国際共同制作の企画が立ち上がってから急に生まれた作品ではありません。翻訳、演出、俳優との出会い、劇場同士の関係が長い時間をかけて蓄積され、その経験から一つの舞台装置が見つかり、そこから家族の物語が組み立てられました。国際共同制作という言葉は華やかですが、実際には一度の交流イベントではなく、何度も会話を重ねるための制度と信頼によって成立しています。

2021年の初演は、新型コロナウイルス感染症の影響を受けた時期でもありました。海外の劇作家が日本に滞在し、俳優と同じ稽古場で長期間創作することは簡単ではありません。国際交流基金の記録には、ランベールがオンラインで参加した稽古や、制約のある状況で制作を進めた過程が残されています。『KOTATSU』は、世界が移動を止めた時期に、どうやって共同制作を止めないかという実務的な問題も背負った作品です。

その作品が2026年、フランスのTNBフェスティバルで上演されます。これは単なる海外公演ではありません。日本で生まれた共同制作が、今度はランベールの活動基盤に近いフランスの劇場環境へ戻り、別の観客に向けて再び立ち上がる段階です。作品は完成品として移動するのではなく、創作の関係ごと往復しています。

なぜ「こたつ」が国際共同制作の中心になったのでしょうか

こたつは、海外の観客にとって分かりやすい日本的なイメージです。映像や写真で見れば、家族が足を入れてくつろぐ家具として説明できます。しかし、舞台上のこたつは、説明のために置かれた展示物ではありません。出演者の足元を隠し、身体の一部を見えなくし、座る位置を固定し、立ち上がる行為に意味を与えます。

家族の誰かがこたつから出るだけで、会話の場から距離を取ることになります。逆に、同じこたつに入り続けることは、仲が良いという意味だけではありません。帰ることができない、帰りたくない、帰ると関係が壊れる、といった複数の読みが同時に成立します。舞台装置が人物の心理を説明するのではなく、人物がそこから動けない状況を作るのです。

『KOTATSU』の設定は、創業から一代で国際企業へ成長した家族と、その親族や関係者が新年に集まるというものです。家族の成功を祝う場であるはずなのに、会話のなかには会社の危機、世代間の考え方の違い、過去の記憶、SNSを通じて広がる社会の反応が入り込んできます。私的な団欒の場が、企業、家族、社会、メディアの境界をまたぐ場所になります。

ここで大切なのは、こたつが「日本人は家族を大切にする」という単純な記号になっていないことです。家族が集まる場所には、安心だけでなく監視もあります。互いの近況を知っているからこそ、言葉を選びます。沈黙も共有されます。こたつの内側にいる人は、外から見れば親密ですが、内側にいる本人にとっては、会話から逃げにくい空間でもあります。

この二重性は、文化を越えて伝わりやすい構造です。フランスの観客が日本の家族の習慣をすべて知っていなくても、「祝うために集まったのに、誰も本音を言えない」という状況は理解できます。こたつという具体物が入口になり、観客はそこから家族の権力関係や、成功の裏側にある不安へ進んでいけます。

平田オリザの現代口語演劇と、ランベールの長い対話

平田オリザの演劇は、日常の会話をそのまま再現するものではありません。実際の会話には、同時発話、言い直し、聞き流し、沈黙、視線のずれがあります。平田が提唱してきた現代口語演劇は、そうした生活の細部を舞台上の構造として扱います。重要な情報を誰か一人が大きな声で説明するのではなく、複数の会話が同時に進むなかで、観客が関係の全体像を組み立てます。

『東京ノート』では、美術館のロビーという公共空間に、個人的な会話と世界規模の戦争が並置されます。人々は目の前の予定や家族の問題を話し続けますが、舞台の外側では大きな歴史が進行しています。観客は、世界の危機を直接見るのではなく、日常会話の端に現れる断片から社会の状態を想像します。

『KOTATSU』では、舞台の中心が美術館のロビーから家族の団欒へ移ります。しかし、方法の核心には共通する部分があります。大きな事件を直接見せるのではなく、会話の微細なずれから、社会の構造を浮かび上がらせることです。会社の危機やSNS上の反応を、説明的なニュース映像だけで処理するのではなく、家族がどう語るか、誰が話題を変えるか、誰の言葉が無視されるかによって描くことができます。

一方、パスカル・ランベールの戯曲には、長い台詞、感情の急激な変化、関係が一気に崩れる瞬間があります。彼の代表作『愛のおわり』は、別れ話をする二人の言葉を極端な密度で舞台に置いた作品です。沈黙や日常会話の断片を重視する平田の方法と、言葉を一気に押し出すランベールの作劇は、同じではありません。

だからこそ、『KOTATSU』は「日本の演劇にフランス人作家が合わせた作品」でも、「フランスの作家性を日本の俳優が演じた作品」でもありません。異なる演劇観が、同じ家族の空間に置かれています。静かなやり取りが続いたかと思えば、言葉が相手を追い詰める速度に変わる。場の温度が少しずつ上がり、こたつの温かさが居心地の悪さへ変わる。その変化を、俳優の呼吸と距離で作ることが、共同制作の本体になります。

翻訳の問題は、言葉よりも「自然さ」にあります

日本語の戯曲をフランス語に訳す場合、単語の意味を置き換えるだけでは舞台で機能しません。逆方向でも同じです。会話の自然さは、文法だけで決まらないからです。

たとえば、日本語では主語を省略できます。相手との関係によって敬語や呼び方が変わり、曖昧な返事が肯定にも拒否にもなります。家族のなかでは、あえて説明しないことが親密さの証になる場合もあります。フランス語では、主語や動詞が明示されることが多く、文の構造や論理の見え方が変わります。字幕で意味を届けるだけなら、情報を整理して訳すこともできます。しかし、舞台で会話を成立させるには、誰がどのタイミングで何を言わないのかまで設計しなければなりません。

『KOTATSU』では、日本語上演という形式そのものが重要です。フランスの観客は字幕を読みながら、俳優の声、間、視線、身体の向きを見ます。字幕がすべてを説明しないからこそ、観客は意味を受け取るだけでなく、意味が発生する瞬間を観察します。誰かが返事をしない、少し遅れて笑う、こたつから足を出す。そうした情報は翻訳文の外側にあります。

これは、戯曲を読むときにも有効な視点です。台詞の文字だけを追うと、場面が情報の交換に見えることがあります。しかし、脚本には「誰が誰に向かって話しているか」「返事がどの台詞を受けているか」「話題がどのように移動するか」という構造があります。現代口語演劇を読むときは、台詞の意味だけでなく、話されなかった言葉と、会話から外れた人物にも注目すると、場面の力学が見えてきます。

国際共同制作は、日本文化の輸出ではありません

海外公演を紹介するとき、「日本の文化が世界へ」という表現が使われがちです。もちろん、こたつ、新年、家族企業、SNSといった要素には、日本の現在を伝える働きがあります。しかし、『KOTATSU』を文化輸出としてだけ捉えると、作品の面白さを狭めてしまいます。

国際共同制作の価値は、完成した日本像を海外へ見せることではなく、創作の過程で「日本らしさ」が問い直されることにあります。こたつは日本的な家具ですが、その場で起きる家族の権力関係は、特定の国だけに属しません。会社を継ぐ人、継がない人。成功を守りたい人、成功そのものに疑問を持つ人。家族の内部にいる人と、家族に招かれた外部の人。こうした関係を日本固有の習慣から出発して描きながら、別の社会にも接続していきます。

この点で『KOTATSU』は、翻訳劇と共同制作の違いを考える手がかりになります。翻訳劇では、すでに存在する戯曲を別の言語・文化へ移します。共同制作では、戯曲の成立過程そのものに複数の文化と実演者が参加します。もちろん両者は完全に分かれるわけではありませんが、どこで作品が作られたのかを考えることで、舞台の見方が変わります。

関連する戯曲を読むなら『東京ノート』と『愛のおわり』

『KOTATSU』を観る前後に、関連する作品を二つ読むと、共同制作の輪郭がつかみやすくなります。

『東京ノート』――日常会話の外側に世界を見る

平田オリザの『東京ノート』は、青年団の方法論を知る入口として適しています。美術館のロビーを行き交う人々が、家族、仕事、恋愛、予定について話します。会話は大きな事件を説明するために進むのではなく、複数の人物がそれぞれの目的を持って動くなかで、社会の不安が少しずつ浮かび上がります。

『KOTATSU』との共通点は、親密な会話を社会の縮図として扱うところです。ただし、『東京ノート』では公共空間にいる他人同士の距離が中心になり、『KOTATSU』では家族という近い関係のなかの逃げにくさが中心になります。二作を並べると、平田作品が「静かな会話」を描くのではなく、会話によって人と人の距離を測っていることが分かります。

戯曲図書館の『東京ノート』作品ページでは、作品の基本情報を確認できます。まず戯曲の人物配置を把握し、誰が舞台の中心にいるかではなく、誰の会話が途中で切られているかに注目して読むのがおすすめです。

『愛のおわり』――言葉が関係を終わらせる速度

パスカル・ランベールの『愛のおわり』は、別れを迎える二人の言葉を通じて、会話が人間関係を変えてしまう瞬間を描く作品です。『KOTATSU』よりも直接的に、台詞の量と速度が観客を押します。二人の話は、相手に届くための言葉であると同時に、自分の記憶や傷を整理するための言葉でもあります。

『KOTATSU』では、家族の場に複数の人物がいて、沈黙、話題転換、SNS上の反応などが関係のひずみを広げます。『愛のおわり』を先に読むと、ランベールが「会話」を単なる情報交換ではなく、関係の主導権を奪い合う行為として扱う作家だと分かります。そのうえで『KOTATSU』を見ると、こたつを囲む穏やかな会話のなかにも、誰が場を支配しているのかという緊張を聴き取れるようになります。

さらに、青年団とランベールの出会いが『愛のおわり』日本版の創作から始まったことを知ると、『KOTATSU』は二人の作家が初めて組んだ作品ではなく、既存作品の翻訳と上演を通じて育った関係の先にある作品だと理解できます。

俳優と演出家にとって『KOTATSU』が示すこと

『KOTATSU』は、国際共同制作に関心のある劇団や、翻訳戯曲を上演したい人にとっても参考になる作品です。ポイントは、海外の戯曲を上演するときに、原文の意味を正確に再現することだけが目標ではないということです。

第一に、俳優の身体に合う台詞へ調整する必要があります。日本語として不自然な文を、原文に忠実だからという理由で残すと、俳優の発話が説明に聞こえてしまいます。反対に、自然な日本語にしすぎると、元の戯曲が持つ速度や圧力が失われることがあります。どこまで自然にし、どこに異物感を残すかは、翻訳者、演出家、俳優が稽古場で検討する問題です。

第二に、文化的な小道具を説明しすぎないことです。こたつの意味を台詞で説明すれば、観客は理解しやすくなります。しかし、説明が増えるほど、こたつは生活の一部ではなく、文化紹介の教材になります。舞台上で人がこたつに入り、足を動かし、立ち上がり、戻ってくる。その行動を観客が見ることで、物の意味は少しずつ立ち上がります。

第三に、字幕を「台詞の代用品」にしないことです。字幕は情報を届けますが、俳優の声の高さ、呼吸、相手との距離までは置き換えません。字幕を読みやすくすることと、舞台上の沈黙を生かすことは、しばしば同時に考える必要があります。国際共同制作では、翻訳者が稽古場の外側にいるのではなく、演出と俳優の作業に関わることが重要になります。

まとめ――こたつの内側から、演劇の国際性を考える

『KOTATSU』のフランス上演で注目したいのは、日本の舞台が海外へ紹介されるという事実だけではありません。約20年にわたる平田オリザとパスカル・ランベールの関係、2013年の『愛のおわり』日本版で見つかった「こたつ」という言葉、2021年の制約下での創作、そして2026年のTNBでの上演。その時間の積み重ね自体が、国際共同制作の内容になっています。

こたつは、家族を一つの場所に集めます。しかし、集まった人たちが同じ未来を見ているとは限りません。温かい場所だからこそ、そこから出ることの難しさが生まれます。『KOTATSU』は、その小さな家具を通じて、家族、企業、国家、SNS、異なる言語のあいだにある距離を舞台化します。

海外公演を観るときは、「日本の何が伝わったか」だけでなく、「どの部分が翻訳されずに残ったか」を見てみてください。字幕にならない間、説明されない視線、誰かが会話に入れない時間。そこには、戯曲が国境を越えるときに失われるものではなく、むしろ舞台で新しく発見されるものがあります。

戯曲図書館で平田オリザの作品を探すなら、まずは『東京ノート』から始め、作家の活動全体を知りたい方は平田オリザのプロフィールも参照してください。ランベールとの共同制作を、二人の作家の出会いとしてではなく、台詞と俳優と劇場が長い時間をかけて関係を作った実例として読むと、『KOTATSU』は一度きりの海外公演ではなく、これからの演劇の作り方を考える作品になります。

参考情報

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戯曲図書館 編集部・公開日 2026/11/03

演劇経験者が運営する戯曲検索サービスの編集チームです。脚本選びのノウハウ、演劇の最新情報、公演レポートなどを書いています。

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