2026年の秋に開催される「鳥の演劇祭19」は、単に今年の演目を並べた催しとして見るだけでは少しもったいない演劇祭です。というのも、今回は鳥取・鹿野を拠点に活動してきた鳥の劇場の20周年と重なっているからです。
演劇祭の告知を見ると、スコットランドのアーティストを迎える『TOWA MURA』、アメリカとの連携を含む日系アメリカ人による戯曲リーディング、20周年記念シンポジウム、国際芸術交流ワークショップ、まち歩き、パーティーまでが一つの束として配置されています。この並び方が示しているのは、鳥の演劇祭が「舞台を見て帰る場」ではなく、「演劇と町の関係を体験する場」として設計されていることです。
地方の演劇祭という言葉は、しばしば「都市から少し離れた土地で行われるイベント」くらいの意味で受け取られがちです。しかし鳥の演劇祭は、もっと踏み込んでいます。劇場そのものを創作の拠点にし、その周囲の町を観客の滞在空間に変え、さらに海外との共同制作や教育の回路までつなげてきました。20周年という節目は、その蓄積がどこまで形になったのかを測る機会でもあります。
今回は、この鳥の演劇祭19を入り口にしながら、鳥の劇場が20年かけて何を作ってきたのか、そしてそれがいまの日本の演劇にとってなぜ重要なのかを考えてみます。
廃校を劇場に変えることから始まった20年
鳥の劇場は2006年、演出家の中島諒人さんを中心に、鳥取市鹿野町の廃校となった幼稚園・小学校をリノベーションして始まりました。劇団が自前の劇場を持つこと自体は珍しくありませんが、鳥の劇場の場合に特徴的なのは、その空間を単なる本拠地にせず、「創る」「招く」「いっしょにやる」「試みる」「考える」という複数の機能を持つ場として運営してきた点です。
この姿勢は、地方に劇場を置くことの意味をかなり広く捉えています。公演を打つだけなら、都市部の貸し劇場を使うほうが効率は良いかもしれません。それでも鹿野に拠点を置くのは、作品づくりを日常の地面から切り離さないためです。稽古場、上演空間、地域の人との接点、教育の現場、海外アーティストの滞在先が、一つの地域の中でゆるやかにつながっている。そこに鳥の劇場の独自性があります。
日本の演劇では、作品は生まれても拠点が育ちにくいという悩みが長く続いてきました。上演単位では注目作が現れても、継続的に人を育て、観客を育て、別の地域や国と回路をつなぐ「場」まではなかなか維持できません。鳥の劇場の20年が貴重なのは、作品の一本一本以上に、その場を壊さずに運営し続けてきたことです。
しかもその場は、閉じた共同体ではありません。鳥の劇場の沿革をたどると、韓国、中国、ルーマニア、イギリス、イタリア、フィンランド、フランス、ドイツ、ハンガリー、トルコ、アメリカなど、多様な国のアーティストとの往来が重ねられてきました。地方に根を張ることと、国際性を持つことは矛盾しない。むしろ、拠点があるからこそ国際交流が表面的な招聘で終わらず、創作や教育に沈殿していくのだと分かります。
鳥の演劇祭は「上演ラインナップ」ではなく「滞在の設計」
鳥の演劇祭は2008年に始まり、翌2009年から海外カンパニーの招聘も進めてきました。ここで注目したいのは、演劇祭の価値が作品数の多さだけでは測れないことです。
日本の観客は、どうしても「今年は何本あるか」「有名な団体が来るか」で演劇祭を見がちです。もちろんそれも大切ですが、鳥の演劇祭の本質は別のところにあります。劇場だけでなく町の複数の場所を会場化し、1日を通して演劇、ワークショップ、展示、食、交流を重ねられるようにしていることです。これはフェスの賑わいづくりというより、観客の時間感覚を変える試みだと言えます。
都市部の公演鑑賞は、移動して、観て、帰る、という線形の体験になりがちです。それに対して鳥の演劇祭では、町を歩く時間、他の観客やアーティストと会話する時間、店に立ち寄る時間、ワークショップをのぞく時間までが、演劇体験の一部になります。観劇を作品単体から環境全体へと拡張しているのです。
この設計は、演劇の受け取り方をかなり変えます。一本の舞台だけを見ると難解に感じる作品でも、その土地の空気や周辺の企画を含めて体験すると、作品が置かれている文脈が身体的に理解しやすくなります。演劇祭とは、作品の陳列ではなく、理解のための環境づくりでもあるのだと気付かされます。
20周年を迎える2026年のプログラムでも、その思想ははっきり出ています。20周年記念シンポジウムに加えて、ダンス、戯曲リーディング、音楽、子どもの演劇に関する国際芸術交流ワークショップが組まれているのは象徴的です。つまり鳥の劇場は、自分たちの節目を「記念公演」だけで祝うのではなく、「これから何を学び、誰と交わるか」という形で祝おうとしているわけです。そこに、この劇場の真面目さと先の長さがあります。
20周年で見えてくるのは、地方創生より先にある「創作の自治」
鳥の劇場や鳥の演劇祭は、しばしば地域振興や地方創生の文脈でも語られます。実際、廃校活用、町歩き、週末だけの店、地域との共同企画など、まちづくりの側面は明らかにあります。ただし、ここを安易に「成功した地域活性化事例」とだけまとめてしまうと、この活動の核心を見失います。
鳥の劇場が作ってきたのは、観光資源というより、創作の自治に近いものです。つまり、どこかの大都市圏の判断を待たずに、自分たちの拠点で上演し、学び、招き、試し、地域と交渉しながら文化の回路を自前で作っていく力です。
演劇はどうしても、東京での評価、助成の採択、批評メディアへの露出に影響されやすい分野です。その構造自体が悪いわけではありませんが、それだけに依存していると、地方の現場は「作品を出荷する場所」になりかねません。鳥の劇場の20年が示しているのは、地方は出荷元である前に、思考の中心になり得るということです。
これは劇作家や演出家にとっても重要な示唆です。創作は、上演機会があるだけでは続きません。テキストを読み直す時間、俳優と長く稽古する時間、失敗しても次がある拠点、観客との継続的な関係が必要です。鳥の劇場が持っているのは、そうした長期的な時間です。20周年という数字の意味は、派手さよりも、その時間の厚みにあります。
そしてこの時間の厚みが、結果として国際交流も支えています。海外アーティストを呼ぶこと自体は難しくありません。本当に難しいのは、呼んだ後に何が残るかです。鳥の劇場では、共同制作、ワークショップ、教育活動、演劇祭の蓄積が互いに接続しているため、交流が一度きりのイベントになりにくいのです。地方にある小劇場が、世界との接点を「継続可能な形」で持てることを実証してきた点は、もっと評価されていいと思います。
今年のラインナップから見える「開き方」
今回の鳥の演劇祭19の告知で印象的なのは、プログラムの幅が広いのに、焦点がぼやけていないことです。たとえば、鳥の劇場自身による『葵上』や『注文の多い料理店』があり、外部との共同性を感じさせる『TOWA MURA』があり、さらに日系アメリカ人による戯曲リーディング『美しく、祝福された子ども』のように、言語や歴史のレイヤーを持ち込む企画もあります。
ここで大事なのは、単に和洋折衷で賑やかという話ではありません。古典、近代文学、現代的な共同制作、リーディング、ワークショップを同じ演劇祭の中に置くことで、「演劇は完成品だけではなく、読み、作り、交換し、地域で受け止めるものだ」というメッセージが通底していることです。
鳥の劇場の過去のレパートリーを見ても、その姿勢は一貫しています。デュレンマットの『老貴婦人の訪問』、チェーホフの『かもめ』、魯迅原作の『剣を鍛える話』、カミュの『誤解』、三島由紀夫の『熊野』『葵上』、ピンターの『料理昇降機』、グリムの『白雪姫』、そして『天使バビロンに来たる』。日本の近代、欧州近代、寓話、現代劇が並んでいて、しかもそれらが「名作を消費するための上演」ではなく、鹿野という場所でいま上演する意味を探るためのレパートリーになっています。
この並びを見ていると、鳥の演劇祭19は20周年の総決算というより、「私たちはこれからもこういうふうに開いていく」という宣言に近いと感じます。地域に根ざしながら、作品選択は閉じない。教育に関わりながら、芸術性を薄めない。海外とつながりながら、土地の輪郭を失わない。そのバランス感覚こそが、この演劇祭の最大の見どころではないでしょうか。
関連作品をどう読むか 鳥の演劇祭をきっかけに開きたい戯曲の棚
こうした演劇祭の記事を書くと、つい「現地に行けるかどうか」で話を終えがちですが、戯曲図書館としてはむしろ、その先にある読みの入口を示したいです。鳥の演劇祭19に関心を持った人が手に取りたいのは、上演予定作そのものだけではありません。鳥の劇場が20年かけて向き合ってきたレパートリーの系譜です。
まず気になるのは、今年もラインナップに入っている『葵上』です。三島由紀夫の近代能楽集は、古典の骨格を残しつつ、現代人の欲望や執着をむき出しにするテキストとして非常に強いです。大きな装置で見せることもできますが、俳優の気配と空間の緊張があれば成立する戯曲でもあります。地方の劇場空間で上演されるとき、古典が「保存」ではなく「現在の身体に刺さるもの」として立ち上がりやすい作品です。
次に、『注文の多い料理店』のような文学作品の舞台化にも注目したいです。宮沢賢治のテキストは広く知られていますが、舞台になると、読むときには流してしまうリズムや反復、恐怖とユーモアの混ざり方が際立ちます。地域の子どもや初めて演劇に触れる観客に開きやすい題材でありながら、演出次第ではかなり不穏で深い作品にもなる。この両義性は、鳥の劇場が重ねてきた教育的な活動ともよく響き合います。
さらに、鳥の劇場の過去作から読むなら、チェーホフの『かもめ』、デュレンマットの『老貴婦人の訪問』、カミュの『誤解』あたりは、共同体の中で個人がどう窒息し、どう欲望し、どう壊れていくかを考えるうえで格好の入り口です。どの作品も、都市の閉塞だけでなく、小さな共同体の息苦しさや切実さを読み込めるからです。鹿野という土地に拠点を置く劇団がこれらをレパートリーにしていることには、偶然以上の必然があります。
そして、もし「地方の劇場が世界とつながる」とはどういうことかを作品から考えたいなら、魯迅に基づく『剣を鍛える話』のような越境的なテキストは見逃せません。翻訳劇や翻案劇は、外国作品を日本語で上演すること自体が目的ではなく、異なる歴史や感情の形式を自分たちの場所に引き受けるための方法です。鳥の演劇祭19で海外との共同性に惹かれた人ほど、こうした作品の読み直しは面白いはずです。
鳥の演劇祭19が示す、日本の演劇への小さくない希望
いま日本の演劇界には、拠点運営の難しさ、担い手不足、資金難、観客の固定化など、重い課題がいくつもあります。その中で20年続いた地方の劇場と19回続いた演劇祭の存在は、それだけで一つの答えになっています。もちろん、誰でも同じモデルをそのまま真似できるわけではありません。それでも、「地方に拠点を持つことは不利ではなく、やり方次第で創作の強みになる」と示し続けてきた意味は大きいです。
鳥の演劇祭19が面白いのは、20周年の祝祭性より、次の世代に何を残すかが見えるところです。子どもの演劇ワークショップがあること、国際交流が上演だけで終わらないこと、シンポジウムで劇場と「生きる」のつながりを考えようとしていること。どれも、演劇を一部の専門家のものに閉じないための工夫です。
演劇は、上演されるその瞬間にしか存在しない芸術だと言われます。それは半分本当ですが、半分は違います。演劇の瞬間を支えるのは、その前後にある場、関係、記憶、学び、地域との交渉だからです。鳥の劇場の20年と鳥の演劇祭19は、その「前後」を丁寧に育ててきた例として読むべきだと思います。
鹿野の秋に並ぶ一本一本の作品はもちろん楽しみです。ただ、それ以上に気になるのは、その作品を受け止める土地と劇場の成熟です。演劇祭を見に行くというより、演劇が根を張った場所を見に行く。鳥の演劇祭19は、そんなふうに捉えるといちばん面白くなるはずです。
Written by
戯曲図書館 編集部
演劇経験者が運営する戯曲検索サービス「戯曲図書館」の編集チームです。 脚本選びのノウハウ、演劇業界の最新情報、公演レポートなどを発信しています。
関連記事
KYOTO EXPERIMENT 2026はなぜ『作品の見本市』ではなく『考える場所』であろうとするのか
KYOTO EXPERIMENT 2026の全ラインナップ発表を手がかりに、国際舞台芸術祭がいま何に抗い、どのように関西に根を張ろうとしているのかを、歴史・資金環境・具体的な演目から読み解きます。
2026-07-31
ベケットはなぜいま“アイルランドに帰る”のか──サミュエル・ベケット・ビエンナーレが照らす亡命作家の再読
サミュエル・ベケット・ビエンナーレを起点に、ベケットが長く“アイルランド人だがアイルランド作家ではない”と見なされてきた理由、いま再びアイルランドで読み直される背景、そして『ゴドーを待ちながら』『クラップの最後のテープ』『しあわせな日々』をどう現在形で受け取るべきかを考えます。
2026-07-12
全国の演劇祭・コンクール一覧|出場・参加する方法
日本全国の主要な演劇祭・コンクール・フェスティバルを紹介。高校演劇、アマチュア劇団、プロ向けの各カテゴリ別にまとめました。
2026-02-08