2026年秋、世田谷パブリックシアターで『Yerma イェルマ』が上演されます。ニュースとして受け止めれば、ロルカの古典を起点にした新作劇です。ですが、この企画の本当の面白さは、単なる名作の再演でも翻案でもないところにあります。世田谷パブリックシアターの公式情報は、この作品を「生産性のない人たちには存在価値がないのか」という問いから始めています。ここが重要です。
ロルカの『イェルマ』といえば、まず「子どもを持てない女性の悲劇」として知られてきました。しかし2026年の日本でそれをそのまま上演するだけでは、おそらく古典紹介で終わってしまいます。今回の企画が鋭いのは、不妊や母性の問題を、もっと広い「承認」「役割」「生きる価値」の圧力へ接続しようとしている点です。
つまり今の『イェルマ』は、母になれない苦しみの話であると同時に、何かを生み出せない人は価値が低いとみなされる社会の話として読み直されようとしています。これは演劇ファンだけでなく、脚本を書く人、演じる人、あるいは「ちゃんとしていなければ」と日々追い立てられている人にとって、とても他人事ではありません。
ロルカの『イェルマ』は何を描いた戯曲なのか
ロルカの『イェルマ』は1934年に書かれた戯曲です。ロルカ関連の公式アーカイブ「Universo Lorca」によれば、この作品の中心には、不妊、あるいは生殖への欲望と感覚の抑圧が置かれています。舞台はスペインの農村社会で、イェルマは父に決められた結婚を受け入れたものの、望んでいた子どもを持てません。やがて夫フアンとの関係は冷え、自宅は安らぎの場ではなく、欲望と沈黙がこもる密室になっていきます。
終盤でイェルマは、子を授かるための民間信仰や祭礼の場に身を置きますが、最後には「子どもを持たないほうが幸せだ」と本音を漏らした夫を自らの手で絞め殺します。そして、自分自身で「わたしは自分の子を殺した」と叫ぶ。この結末の残酷さが、この戯曲を単なる家庭悲劇ではなく、社会が女性に押しつける役割そのものの悲劇にしています。
ここで見落としたくないのは、イェルマの苦しみが、生物学的な問題だけから生まれているわけではないことです。彼女を壊していくのは、農村共同体の視線であり、結婚制度であり、女は母になるべきだという価値観です。ロルカはそこを、詩的でありながら恐ろしく具体的に書きました。
『血の婚礼』『ベルナルダ・アルバの家』と並ぶ、ロルカの女性劇
『イェルマ』は単独で語っても十分に強い戯曲ですが、ロルカの全体像の中に置くと、さらに輪郭がはっきりします。スペイン国立劇場センターの紹介でも触れられている通り、『血の婚礼』『イェルマ』『ベルナルダ・アルバの家』はしばしばロルカの「農村三部作」として語られます。ここでは、女性が共同体の秩序と欲望の板挟みになる構図が繰り返し現れます。
『血の婚礼』では、結婚という制度の外へあふれ出す欲望が、流血にまで至ります。『ベルナルダ・アルバの家』では、家そのものが抑圧装置になり、娘たちの生を窒息させます。『イェルマ』はその中間にあるようでいて、実は最も容赦がありません。なぜなら主人公は反抗的でも奔放でもなく、むしろ社会の規範を内面化しているからです。自由に生きたいから壊れるのではありません。「正しく生きたい」と願いすぎるから壊れるのです。
この構図は、現代の観客に非常によく刺さります。いま私たちを苦しめる規範は、露骨な命令の形ばかりではありません。結婚したほうがいい、子どもを持ったほうがいい、仕事も続けたほうがいい、充実していたほうがいい、社会に役立っていたほうがいい。誰かに怒鳴られなくても、そういう空気は日常の中にあります。『イェルマ』が古びないのは、この「規範を自分で引き受けてしまう苦しさ」を書いているからです。
今回の日本版が面白いのは、「母になれない」から「価値を証明できない」へ軸をずらしていること
世田谷パブリックシアターの今回の企画でいちばん注目すべきはここです。公式サイトでは、舞台を1930年代スペインの寒村そのままにするのではなく、都心から少し離れた一軒家へ移し替え、心身の不調で仕事を諦めて結婚したイェルマが、夫、義姉、幼なじみ、妊娠に成功した友人たちとの関係の中で、自分の存在価値を疑っていく物語として説明されています。
この設定変更はとても大きいです。原作のイェルマは、共同体から「母であるべき」と見なされます。今回のイェルマは、それに加えて、現代社会から「働ける人」「産める人」「ちゃんと幸福を実装できる人」であることまで求められます。つまり圧力が複層化しています。
稲葉賀恵さんのコメントも印象的です。彼女は、最初はイェルマに共感できなかったが、それはイェルマの中に惨めな自分自身を見つけたからだと語っています。そして「存在価値がないと感じる女性としての罪悪感」と、この社会について考えたと述べています。ここには、古典を上演するというより、古典を使って今の社会の病理を露出させようとする姿勢があります。
さらにオノマリコさんは、現代の都会に生きる人々の孤独と、「多様な生き方があるようでいて、依然として“正解”のルートに縛られる息苦しさ」を書くと述べています。これを読むと、今回の『Yerma イェルマ』は不妊の物語にとどまりません。近代家族の物語を、承認経済の時代に更新する試みとして見るべきでしょう。
イェルマを壊すのは夫だけではない
『イェルマ』を読むとき、つい「理解のない夫」が悪いという整理をしたくなります。もちろんフアンは大きな問題です。原作でも彼は、イェルマの欲望を受け止めず、世間体と秩序を優先する人物として描かれます。今回の日本版でも、フワンは家庭生活に非協力的で、自ら秘密を抱える夫として設定されています。
ただ、この戯曲の恐ろしさは、加害の中心が一人ではないことです。近所の女たちの噂、家族の視線、友人との比較、宗教や迷信、そして「こうあるべきだ」という主人公自身の思い込み。イェルマを追い込む力は、社会のいたるところに分散しています。
これは現代日本でもほとんどそのままです。露骨な差別発言は減っても、ライフステージの比較、SNSで見えてしまう他人の充実、職場での暗黙の期待、家族からの無邪気な一言が、人を静かに追い詰めます。だから今回の日本版が、幼なじみや友人たちを配置し、リモートワークの部屋を借りる設定まで持ち込んでいるのはうまいと思います。現代の息苦しさは、村の広場ではなく、家のリビングとスマホの画面に現れるからです。
海外で『イェルマ』が更新され続けてきた理由
『イェルマ』が現代に接続され続けているのは、日本だけの現象ではありません。2016年、ロンドンのヤングヴィックでサイモン・ストーンがビリー・パイパー主演で手がけた版は、舞台を現代ロンドンに移し、主人公を体外受精に苦しむ女性として描きました。BBCはこの上演を、ロルカの農村劇を現代のロンドンに移し替え、主人公を成功したライフスタイル誌のジャーナリストへと置き換えた作品として紹介しています。つまり、ここでも「母になれない女性」というだけでなく、現代的に成功して見える人が、なお壊れていく構図が前面に出ていました。
また、2023年のガーディアン紙のサイモン・ストーンのインタビューでは、彼が『イェルマ』でロルカのアンダルシアの農村娘を、複数回のIVFにもかかわらず妊娠できず狂気へ追い込まれていく現代女性として再構成したことが振り返られています。そこでは更年期や生殖能力、女性の可視性/不可視性といった論点まで広がっていました。
この流れを見ると、『イェルマ』という戯曲の強さは、単に「不妊を描いた古典」だからではないとわかります。そうではなく、生殖をめぐる社会的な期待が、女性の存在価値そのものに接続されてしまう構造を描いているからです。だから時代ごとに、農村の名誉、近代家族、IVF、キャリア、老い、承認といった別々の問題系へ結びつけることができます。
戯曲として見た『イェルマ』のすごさ
戯曲としての『イェルマ』の魅力にも触れておきたいです。この作品はテーマの強さばかりが語られがちですが、テキストの設計も非常に巧みです。
まず、イェルマは自分の苦しみを何度も言語化しようとします。しかしその言葉は、説明になればなるほど他者に届かなくなります。夫婦の会話はすれ違い、共同体の言葉は噂や教訓に回収され、主人公の欲望は祈りや叫びに変わっていく。つまりこの戯曲は、「話せば解決する」タイプの劇ではありません。むしろ、言葉があるのに届かない構造そのものが悲劇を作っています。
また、老婆や洗濯女たちのような存在が、単なる脇役以上の働きをします。彼女たちは世間の声であり、誘惑であり、主人公の内面を外在化する装置でもあります。今回の日本版で渡辺いっけいさんが演じる「老婆」が、イェルマの内的存在として説明されているのはとても興味深いです。原作にある共同体の不気味さを、現代劇としてどう可視化するか。その鍵を握る役になりそうです。
脚本を書く人にとっても、『イェルマ』は学ぶことが多い戯曲です。社会問題をそのまま説明しなくても、人物の渇きと関係の軋みを書けば、結果として時代の圧力が立ち上がる。その見本になっています。
今の観客にとっての関連作品
もし今回の『Yerma イェルマ』に関心があるなら、関連して触れておきたい作品がいくつかあります。
まずロルカ自身の『血の婚礼』です。欲望と制度の衝突を、より運動量の大きい悲劇として味わえます。『イェルマ』が内向きの窒息だとすれば、『血の婚礼』は外へ噴き出す破裂です。
次に『ベルナルダ・アルバの家』です。家父長制という言い方では足りないほど、家そのものが監獄化する恐ろしさがあります。閉ざされた家の中で女性たちが互いの監視者にもなっていく構図は、『イェルマ』の息苦しさと直結しています。
そして視野を少し広げるなら、イプセンの『人形の家』も連想されます。ノラは家を出ますが、イェルマは家の論理を壊しながらも、そこから自由になりきれません。この差を見比べると、近代劇が女性に何を語らせ、どこで沈黙させてきたかがよく見えてきます。
日本の同時代作品に引きつけるなら、家族の期待や社会の役割に押しつぶされる人物像を描く現代劇ともつながります。今回の『Yerma イェルマ』がオノマリコ×稲葉賀恵という組み合わせで立ち上がることには、その橋渡しの意味があります。ロルカを輸入して終わるのではなく、日本語の現在へ持ち込むための布陣だからです。
なぜ今『イェルマ』なのか
結局のところ、今この作品が必要とされる理由は明快です。私たちは自由になったようで、依然として「正しい人生」の圧力の中にいます。結婚しているか、子どもがいるか、働いているか、稼いでいるか、心身が安定しているか、誰かに必要とされているか。その評価軸が増え、しかも内面化されている時代に、『イェルマ』はむしろ1934年より切実かもしれません。
世田谷パブリックシアター版の『Yerma イェルマ』は、その切実さを真正面から引き受けようとしています。不妊の悲劇を、同情の物語として消費するのではなく、「生産性がないなら存在価値がないのか」という現代の暴力へ接続する。その方向が成功すれば、この作品は古典の翻案ではなく、2020年代の日本に必要な新作として立ち上がるはずです。
戯曲図書館の読者にとっても、これは見逃せない動きです。なぜなら『イェルマ』は、古典が現代化される例だからではありません。古典の中に最初から埋まっていた社会の残酷さを、今の言葉で再び発火させる例だからです。そこに成功したとき、演劇は「昔の名作を勉強する場」ではなく、「いま自分がどんな規範に縛られているかを知る場」になります。『Yerma イェルマ』は、その可能性をかなり強く秘めた企画だと思います。
参考情報源
- 世田谷パブリックシアター『Yerma イェルマ』公式ページ
- Universo Lorca「Yerma」
- BBC News「Billie Piper 'devastatingly good' in Yerma update」
- The Guardian「Director Simon Stone: ‘My heroes are women’」
- ステージナタリー「咲妃みゆ・渡邊圭祐ら出演、稲葉賀恵×オノマリコの『Yerma イェルマ』シアタートラムほかで」
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Written by
戯曲図書館 編集部
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