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『女の一生』初稿版再演が照らすもの――“焼け跡”の前から読む、戦時下の日本演劇

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#女の一生#森本薫#近代演劇#戦時下演劇#文学座
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2026年春、ドナルカ・パッカーンが座・高円寺で森本薫『女の一生』の「戦時下の初稿版」を再演しました。ニュースとして見れば、名作の珍しい版の上演です。けれども、この出来事の本当の重さは、単なる復刻上演にはありません。私たちが長く知ってきた『女の一生』は、戦後に書き直された版を通して受け取られてきました。つまり今回の再演は、「名作をもう一度観る」機会ではなく、「名作が何を見せ、何を見せないようにしてきたのか」を問い直す機会だったと言えます。

とくに重要なのは、有名なこの作品が本来「焼け跡」から始まるものではなかったという点です。戦後版では、敗戦後の焼け跡から主人公・布引けいの人生が回想されます。しかし初稿版は、1942年1月1日、真珠湾攻撃直後の正月から始まります。この差は単なる導入の違いではありません。被害の記憶から始まるのか、それとも加害と動員のただ中から始まるのか。ここが変わると、同じ人物、同じ台詞、同じ家の物語でも、作品の倫理的な重心が大きく変わってきます。

なぜ今、初稿版が重要なのか

ドナルカ・パッカーンは今回の企画で、戦後に一般化した「焼け跡から始まる『女の一生』」ではなく、戦時下に日本文学報国会の委嘱で書かれた初稿版を前面に出しました。ステージナタリーや公式情報によれば、同団体は2019年にもこの初稿版を戦後初めて完全上演しており、今回は新たなクリエーションとして再び向き合っています。

この視点が鋭いのは、『女の一生』があまりにも「戦後の名作」として定着しすぎたからです。文学座の上演史の中で本作は特別な地位を占め、杉村春子さんの当たり役として長く愛されてきました。文学座の公演解説によれば、1945年4月の初演以後、杉村主演だけでも947回に達し、その後も平淑恵さん、さらに鵜山仁さん演出へと受け継がれてきました。つまり私たちは長いあいだ、『女の一生』を「敗戦までを生き抜いた女性の普遍劇」として読むことに慣れてきたのです。

しかし、その「普遍性」は完全に無垢ではありません。戦時下の初稿を、戦後の日本社会がどのように読み替え、上演しやすい形に整えてきたかを見ないかぎり、この作品の大きさも危うさも半分しか見えません。

初稿版と戦後版は何が違うのか

ドナルカ・パッカーンの解説noteと慶應義塾大学の小平麻衣子さんの論文がそろって指摘しているように、最大の違いはプロローグとエピローグです。現在よく知られる版では、終戦直後の焼け跡にいるけいのもとへ栄二が帰ってきて、そこから回想が始まります。ところが初稿版では、1942年の正月、まだ戦時の高揚と日常が同居している時間から物語が開きます。

この違いは、観客の感情の入り口を決定づけます。焼け跡から始まれば、私たちはまず「失った人たち」の側に立ちます。けいの苦労も、堤家の崩壊も、敗戦の痛みの中で受け止めやすくなります。けれども1942年正月から始まると、作品はもっと厄介です。そこには、戦争の被害だけでなく、日本が戦争を遂行する側であった時間が最初から埋め込まれています。初稿版に残る中国情勢や戦争認識にかかわる台詞は、戦後版ではかなり整理・削除されました。つまり戦後版は、作品を救ったと同時に、観客が向き合うべき歴史の刺を少し抜いてしまったとも言えます。

さらに小平論文が面白いのは、この改訂が単純な「検閲回避」だけではなく、人物の見え方まで変えていると示している点です。とくに布引けいと栄二の関係です。初稿からすでに二人のあいだには淡い感情が流れていますが、戦後版ではその「本心を押し殺して家を選んだ女性」という像がいっそう強まります。結果として、『女の一生』は家と時代に尽くした女性の物語であるだけでなく、「自分の本当の選択を飲み込んだ女性」の物語としても読まれるようになりました。

けいは「時代を生きた女」なのか、「時代に合わせて自分を裏切った女」なのか

『女の一生』の読みが難しく、同時に豊かなのはこの点です。けいはしばしば、時代をたくましく生き抜く女性として紹介されます。もちろんそれは間違っていません。孤児のような境遇から堤家に入り、家業を支え、家の中心になっていく姿には強さがあります。

ただし、けいの強さは気持ちのよい英雄性だけではできていません。むしろこの人物は、自分の感情よりも「家」「商売」「時代の要請」を優先し続けることで成立しています。有名な「誰が選んでくれたのでもない、自分で選んで歩きだした道ですもの」という台詞も、単なる自立宣言として読むだけでは足りません。あれは自分を励ます言葉であると同時に、別の道を選ばなかったことを正当化する言葉でもあります。初稿版から戦後版への変化を踏まえると、この台詞はますます痛く響きます。

だからこそ、初稿版を今上演する意味があります。戦後版のけいは、敗戦を経た日本の観客にとって共感しやすい存在でした。しかし初稿版のけいは、それだけでは終わりません。彼女は戦争の空気を吸い込みながら家を守り、その時代の論理の内側で動いてしまう人でもあります。言い換えれば、善良さと加担が同じ人物の中に共存しています。その複雑さは、2020年代の私たちが戦争責任や歴史修正を考えるうえで、むしろ戦後直後より切実かもしれません。

森本薫を「戦後の名作家」だけで終わらせないために

森本薫は1912年生まれ、34歳で亡くなった早熟の劇作家です。文学座の座付き作家として活動し、『みごとな女』『華々しき一族』などを残しました。文学座の資料にもある通り、『女の一生』は彼の最後の戯曲であり、京都への疎開、病床、敗戦、そして戦後改訂を経て遺作となりました。

この経歴だけを見ると、「夭折した天才劇作家の到達点」として作品を神話化したくなります。ですが、初稿版を読むと、森本薫はもっと矛盾を抱えた作家に見えてきます。戦時下の委嘱作品として書かれたこと、戦争を“運命”として語るような台詞を含んでいること、そして戦後には自ら書き換えていること。これは、作家が時代に押し流されたというだけの話ではありません。むしろ、優れた作家ほど時代に深く組み込まれ、その内部でしか書けないものを書いてしまうということでもあります。

この点で、ドナルカ・パッカーンが企画意図の中で木下恵介の映画『陸軍』を参照しているのは示唆的です。『陸軍』もまた、戦時体制下の作品でありながら、国家の物語と個人の感情がずれ続けることで、単純な国策映画には回収されない複雑さを持っています。『女の一生』初稿版も同じように、国策劇として書かれながら、完全には国策の言葉だけでは閉じない人物の揺れを抱えています。そこに「抵抗のよすが」を探ろうとする今回の再演は、かなり本筋を突いています。

文学座の上演史まで含めて読むと、作品の見え方はさらに変わる

もうひとつ大事なのは、『女の一生』が単独の名作ではなく、文学座という上演共同体の中で育てられてきた作品だということです。文学座の資料には、杉村春子さんから平淑恵さん、さらに後代の演出へと受け継がれてきた履歴がはっきり残っています。作品の生命が長いということは、それだけ多くの観客に届いてきたという意味で喜ばしいです。

ただ、上演が積み重なるほど、「今ふつうに上演される版こそ本体だ」という感覚も強くなります。ここで初稿版が再演されると、私たちは初めて、この作品が一枚岩の完成品ではなく、戦中・戦後・再演のたびに意味を変えてきた演劇だと実感できます。つまり今回の舞台は、森本薫の戯曲だけでなく、日本の戦後演劇が何を残し、何を読み替え、何を見えにくくしてきたかまで映し出しているのです。

この見方をすると、『女の一生』の魅力は「昔の名台詞が今も通じる」ことだけではなくなります。むしろ、同じ台詞が時代によって別の響きを持ってしまうこと、そしてそのズレごと作品が生き延びてきたことこそ、演劇としての強さだったのだと思います。

2026年の観客は、この作品をどう受け取るべきか

いま初稿版を観る価値は、過去の日本を安全圏から裁けるところにはありません。むしろ逆で、戦争へ向かう社会の言葉が、家族の会話や商売の判断や結婚観の中にどう染み込んでいくかを、かなり生々しく見せてくれるところにあります。

『女の一生』が怖いのは、戦場を直接描かないからです。台所や座敷や応接間の出来事が、じわじわと国家の論理につながっていきます。誰か一人の悪意によって社会が壊れるのではなく、善良で勤勉な人たちが、それぞれの持ち場で「仕方がない」と判断し続けた結果として大きな流れに巻き込まれていく。その感触は、現代の観客にとっても決して過去のものではありません。

戯曲を書く人にとっても、この作品はかなり実践的です。社会的テーマを扱うとき、つい大事件やスローガンを前面に出したくなります。けれども『女の一生』がいまも強いのは、歴史の圧力が生活の言い回しとして現れるからです。演劇が社会を描くとは、政治的に正しい結論を叫ぶことではなく、人が日常の言葉で時代の論理を運んでしまう瞬間を書くことなのだと、改めて教えられます。

いま一緒に見たい関連作品

この上演をきっかけに読む・観るなら、まずは戦後版の『女の一生』そのものを比較対象にするのが第一です。同じ作品が、入口の数場面を書き換えるだけでどれほど別の倫理を帯びるかがよくわかります。

次に挙げたいのは木下恵介監督の映画『陸軍』です。国策に沿いながらも、送り出す側の感情が画面からあふれ出し、制度の言葉と個人の痛みがずれていく点で、『女の一生』初稿版を考える補助線になります。

さらに、女性の人生と社会制度のねじれを読むなら、ロルカ『イェルマ』やテネシー・ウィリアムズ『欲望という名の電車』も有効です。どちらも「女性の生」を扱う作品ですが、重要なのは女性を美しく消費することではなく、社会の規範が一人の身体と人生にどう入り込むかを可視化するところにあります。『女の一生』もまた、その系譜の中に置き直すことで、単なる名台詞の劇ではなくなります。

まとめ

『女の一生』初稿版の再演は、古典の珍しい版を掘り起こしたというだけのニュースではありません。むしろこれは、戦後日本が大切に受け継いできた名作の輪郭を、いったん崩してみせる出来事でした。

焼け跡から始まる版は、敗戦後の日本人にとって必要な物語だったのだと思います。けれども今、そこだけにとどまると、この作品がもともと抱えていた戦時下の論理や加害の影が見えにくくなります。初稿版は、その見えにくくなった層をもう一度表に出します。そして布引けいを、ただ耐え抜いた女性ではなく、時代の論理を引き受け、自分の感情さえ折りたたみながら生きた人として立ち上げます。

その複雑さこそが、『女の一生』を今も古びさせない理由ではないでしょうか。名作とは、安心して感動できる作品のことではありません。読むたびに、こちらの歴史認識や倫理観のほうを揺さぶってくる作品のことです。今回の初稿版再演は、その揺さぶりをとても正面から取り戻した上演だったと感じます。


参考にした主な情報源

  • ステージナタリー(2026年3月4日配信の公演発表記事)
  • ドナルカ・パッカーン公式サイト/note「森本薫『女の一生』初稿版とは?」
  • 文学座「女の一生」公演解説
  • 小平麻衣子「『女の一生』の分かれ道――森本薫作・久保田万太郎演出の〈戦後〉」(『藝文研究』123巻1号、2022年)
  • コトバンク「女の一生」項目

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Written by

戯曲図書館 編集部

演劇経験者が運営する戯曲検索サービス「戯曲図書館」の編集チームです。 脚本選びのノウハウ、演劇業界の最新情報、公演レポートなどを発信しています。

公開日: 2026-06-02
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