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19年ぶりの上演が示すもの
2027年1月、新橋演舞場の「初春大歌舞伎」で、通し狂言『雷神不動北山櫻(なるかみふどうきたやまざくら)』が19年ぶりに上演されます。市川團十郎さんが、粂寺弾正、鳴神上人、不動明王、早雲王子、安倍清行の五役を勤めることも発表されました。
このニュースは、「一人の俳優が五人を演じる」という見せ場の大きさだけで語られがちです。しかし、『雷神不動北山櫻』の面白さは、早替りの派手さの奥にあります。この作品は、現在では別々の人気演目として知られる『毛抜』『鳴神』『不動』を、もともとは一つの長い物語として束ねていた作品です。つまり今回の上演は、三つの演目を続けて見せる企画というより、歌舞伎が自ら分解した物語を、もう一度つなぎ直す試みなのです。
歌舞伎を初めて見る人にとっても、この作品は格好の入口になります。磁石に引かれる髪の毛、美女に誘惑される荒法師、空間を超えて現れる不動明王。場面ごとの趣向はまったく違いますが、一本の戯曲として読むと、そこには「秩序が揺らぎ、身体が変わり、最後に神仏の力が現れる」という流れが見えてきます。五役早替りは、その流れを一人の身体に集約するための仕掛けです。
『毛抜』『鳴神』『不動』が一つの長編だった理由
『雷神不動北山櫻』は、寛保2年(1742年)に二代目市川團十郎によって大坂で初演されたとされます。今日よく知られている『毛抜』『鳴神』『不動』は、もともとこの長い作品の一部でした。国立劇場の文化デジタルライブラリーや日本芸術文化振興会の解説でも、三作品が『雷神不動北山櫻』に含まれていたことが確認できます。
『毛抜』では、粂寺弾正が、女性の髪や自分の毛抜きが磁力に引かれる奇怪な現象を手がかりに、姫の婚姻をめぐる陰謀を見抜きます。荒唐無稽な仕掛けを楽しみながら、観客は「目の前で起きていることを疑う」探偵役の知性に引き込まれます。
『鳴神』では、朝廷への恨みから竜神を滝壺に封じた鳴神上人を、雲の絶間姫が色仕掛けと話術で堕落させます。前半は男女の会話と仕方話によって進み、後半は荒事の怒りへと急転します。ひとつの場面の中で、色気、笑い、欺き、怒りが次々と反転する構成です。
『不動』では、最後に不動明王が現れ、超人的な力によって物語を収束させます。『毛抜』の知恵、『鳴神』の欲望と破綻、『不動』の神聖さは、単独で上演されても成立します。しかし、長編として並べると、世俗の謎が解かれ、人間の欲が暴かれ、最後に神仏の秩序が立ち上がるという大きな階段になります。
この構造は、近代的なリアリズム小説のように、ひとりの主人公の心理を細かく追うものではありません。むしろ、異なる趣向を持つ場面を連鎖させ、俳優の身体と舞台機構で観客の感情を運びます。歌舞伎の「通し狂言」を理解するには、筋の整合性だけでなく、場面と場面がどのような温度差を作るかを見る必要があります。
五役早替りは「別人を演じ分ける」だけではありません
市川團十郎家の上演で大きな話題になるのが、一人五役です。2008年の新橋演舞場公演では、当時の市川海老蔵さんが、従来から演じられてきた粂寺弾正、鳴神上人、不動明王の三役に、早雲王子と安倍清行を加えました。歌舞伎美人の過去のインタビューでは、原作や過去の上演資料を参考にしながら、新たな構想と脚本によって通し狂言を組み立てた経緯が紹介されています。
ここで重要なのは、五役が単なる俳優の技量試験ではないことです。五人の人物を別々に見せるだけなら、複数の俳優を配すれば済みます。それでも一人が担うのは、作品全体の変化を、同じ身体の連続として観客に感じさせるためです。
粂寺弾正は、異変を見抜く知的で快活な人物です。鳴神上人は、禁欲と怒りを抱えた宗教者であり、そこから色欲へ転落します。不動明王は、人間の迷いを超えた存在です。早雲王子と安倍清行も、物語の政治的・神話的な地平を広げる役割を持ちます。これらを一人の俳優が演じると、観客は「この人物はあの人物と同じ人だ」と知りながら、化粧、衣裳、声、姿勢、歩幅の変化によって別の存在を受け入れます。
このとき早替りは、舞台裏で衣裳を変える技術だけではありません。観客の記憶を利用した演出です。さっきまで弾正だった身体が、次には上人として現れる。その瞬間、観客は二つの役の違いを見比べるだけでなく、俳優という一つの核が、人物から人物へと移動していく感覚を味わいます。人物が独立した心理的な個人というより、型、声、衣裳、立ち姿の組み合わせとして立ち上がる、歌舞伎の演技観がここに現れます。
早替りを戯曲の構造として読む
戯曲を読むとき、登場人物を「誰が、何を考え、どう変わったか」という心理の表として捉えることが多いです。しかし歌舞伎の脚本では、人物の変化は台詞だけでなく、出入り、衣裳、見得、鳴物、場面転換と一緒に設計されています。『雷神不動北山櫻』は、そのことがとてもわかりやすい作品です。
たとえば『毛抜』の粂寺弾正は、磁石という小道具をただ説明するために存在するのではありません。舞台上の異変を身体で受け止め、観客が「何かおかしい」と感じる時間を、推理の快感へ変える役です。弾正の台詞は情報を運びますが、同時に、見得や間によって情報を観客の身体へ刻み込みます。
一方、『鳴神』では、台詞の内容だけでなく、会話の速度と距離が人物を変えます。雲の絶間姫は、過去の恋を語る仕方話によって上人の警戒を解き、会話を親密さへ滑らせます。上人の転落は、台詞一行で説明される心理変化ではありません。座る位置、視線、酒、沈黙、触れそうで触れない距離が積み重なり、観客が「いつの間にか堕ちてしまった」と感じるように作られています。
その後の怒りは、写実的な激情として爆発するのではなく、荒事の型へ変換されます。髪が逆立つ鬘、隈取、ぶっ返り、柱巻の見得、飛び六方。人間の感情が、そのままではなく様式化された運動へ変わるのです。だから『鳴神』から『不動』への接続も、現実の因果だけで説明する必要はありません。舞台上の身体が、人間の欲望から神話的な力へ変質していくことが大切です。
一人五役は、この「人物が型によって変身する」仕組みを、俳優の身体一つで見せる方法です。言い換えれば、早替りは場面転換の技巧ではなく、戯曲の構造を観客の目に見える形にする演出です。
成田屋の家の芸と、二代目團十郎の記憶
この作品を語るうえで、成田山新勝寺と市川團十郎家の関係は欠かせません。初代市川團十郎以来、成田山の不動明王への信仰は成田屋の芸の背景にあり、二代目團十郎は、初代の祈願によって生まれたと伝えられています。国立劇場の解説によれば、二代目團十郎は元禄10年(1697年)に「不動」を演じ、当時の観客が舞台上の團十郎へ賽銭を投げたともいわれます。
ここには、現代の劇場で考える「演技」とは異なる関係があります。俳優が架空の人物を演じるだけでなく、演じる俳優自身が、信仰や家の歴史と結びついた存在として舞台に立っていたのです。不動明王を演じる身体は、役の外側にある團十郎家の記憶を背負います。
もちろん、現代の観客がその信仰をそのまま共有する必要はありません。むしろ、共有していない観客にも届くように、歌舞伎は型と物語を磨いてきました。『雷神不動北山櫻』を見るとき、観客は「本当に神が降りた」と信じなくても、舞台上に神聖さが成立する瞬間を体験できます。宗教的な信仰と、劇場で生まれる信じるふりの技術が、同じ舞台で重なるのです。
19年ぶりの上演は、伝統を保存したまま再生するものではありません。過去の團十郎が担った三役や五役を参照しながら、現在の俳優の身体、現在の観客の速度、現在の劇場の設備に合わせて作品を組み替える必要があります。伝統芸能の継承とは、昔と同じ形を再現することではなく、何を残し、何を変えれば、いまの観客に作品の力が届くかを判断することです。
『雷神不動北山櫻』を読むなら、まず比較したい二つの入口
この作品に興味を持ったら、関連する二つの入口から見ていくと理解が深まります。
一つ目は、『毛抜』と『鳴神』を別々の代表演目として読む方法です。『毛抜』では、謎を解く弾正の知性と、磁力という舞台上の仕掛けが中心になります。『鳴神』では、会話と身体の距離が変化し、荒事へ転じる瞬間が中心になります。同じ歌舞伎十八番でも、観客に働きかける方法は違います。二つを比較すると、歌舞伎が「荒事」という一語では括れないことがわかります。
二つ目は、『不動』を単独の神仏の登場場面として見る方法です。『不動』では、人物の心理を掘り下げるよりも、姿、色、音、動きが舞台を満たし、存在の強さを示します。現代劇のように「なぜこの人物はこうするのか」と問い続けるのではなく、「この姿が現れたことで舞台の秩序がどう変わったか」を見るとよいでしょう。
戯曲図書館で歌舞伎の脚本や関連作品を探すときも、演目名だけでなく、「荒事」「見得」「早替り」「通し狂言」「歌舞伎十八番」といった言葉を手がかりにすると、作品同士のつながりを見つけやすくなります。『毛抜』や『鳴神』のように、独立した短い単位として読める作品から入り、最後に『雷神不動北山櫻』全体へ戻ると、長編の構造が見えます。
関連作品として読みたい『助六』と『勧進帳』
もう二つ、比較対象としておすすめしたいのが『助六由縁江戸桜』と『勧進帳』です。どちらも『雷神不動北山櫻』と筋が直接つながるわけではありませんが、役者の身体が物語の秩序を作るという点で重要です。
『助六』では、助六という人物の歩き方、声、見得、傘、鉢巻などが、人物の性格を説明する以上の力を持ちます。観客は助六の内面を小説のように分析するより、彼が花道から現れた瞬間に、舞台の空気が変わることを受け取ります。これは『不動』の登場を考えるうえで有効な比較です。
『勧進帳』では、弁慶、富樫、義経の関係が、台詞と型の積み重ねによって変化します。とくに弁慶は、演じる俳優の声量、足運び、視線、沈黙が、人物の忠義と苦悩を同時に立ち上げます。『雷神不動北山櫻』の五役早替りとは方法が違いますが、一人の俳優の身体が、人物の関係と舞台の緊張を支える点は共通しています。
この二作品を合わせて考えると、歌舞伎の脚本は、台詞の意味だけを読むものではないとわかります。誰がどこから出て、どの速度で歩き、どの瞬間に止まり、どの型を見せるのか。そこまで含めて、はじめて戯曲の設計が見えてきます。
早替りの先に見える「一人の身体の多重性」
『雷神不動北山櫻』の五役を、単なるスターの見せ場として消費するのはもったいないです。むしろこの作品は、一人の身体が複数の人格、複数の時間、複数の秩序を引き受けるという、演劇の根本的な仕組みを大規模に見せています。
俳優は、舞台に立つたびに別人になります。しかし、完全に別人になるわけではありません。観客は同じ声や身体の記憶を持ったまま、人物の変化を見ます。その「同じでありながら違う」という矛盾こそ、演劇の魅力です。五役早替りは、その矛盾を隠さず、むしろ前景化します。
さらに、作品の中では人間の知恵、欲望、怒り、神聖さが、別々の役に割り振られます。一人の俳優がそれらを順番に演じることで、観客は、知性と欲望と神聖さが完全に切り離されたものではないと感じるかもしれません。弾正の快活さ、鳴神の色気と怒り、不動の静けさは、すべて同じ舞台のエネルギーから生まれます。
ここに、『雷神不動北山櫻』が長く上演されてきた理由の一つがあります。古い作品だから残っているのではありません。俳優の身体が変わるたびに、五役のつながり方や、どの人物を中心に見るかが変わる余地を持っているからです。
まとめ
2027年1月の新橋演舞場で19年ぶりに上演される『雷神不動北山櫻』は、豪華な早替りを楽しむだけの演目ではありません。『毛抜』『鳴神』『不動』という、現在は独立して知られる歌舞伎十八番を一つの長編として捉え直し、物語の分解と再接続を、五役を担う一人の身体で見せる作品です。
見るときのポイントは三つあります。第一に、三つの演目がどのような温度差で連なっているか。第二に、粂寺弾正、鳴神上人、不動明王が、同じ俳優の身体からどのように別の存在として立ち上がるか。第三に、成田屋と不動明王の歴史が、現代の劇場でどのように新しい演技へ変換されるかです。
『毛抜』と『鳴神』を別々に読んでから全体を考えるのもよいですし、『助六』や『勧進帳』と比べて、歌舞伎の型が人物を作る仕組みを探るのもよいでしょう。舞台上で俳優が一人五役に変わるとき、変わっているのは衣裳だけではありません。観客の記憶、家の芸の歴史、戯曲の構造、そして演劇における「同じ身体が別人になる」という約束までが、一緒に動き出します。
参考資料
戯曲図書館 編集部・公開日 2026/10/30
演劇経験者が運営する戯曲検索サービスの編集チームです。脚本選びのノウハウ、演劇の最新情報、公演レポートなどを書いています。
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