「授業」は、言葉が壊れるところから始まる
ヌトミックが、ウジェーヌ・イヨネスコの『授業』を2027年1月から2月にかけて上演します。北海道、京都、沖縄、神奈川をめぐる4都市ツアーで、演出と音楽を担うのは額田大志です。出演者には原田つむぎ、長沼航、朝倉千恵子、高木珠里が名を連ねています。公式発表のキャッチコピーは「言葉が、音が、授業が、暴走する!」です。
この一文は、作品のあらすじを説明しているようで、実は上演の核心を示しています。『授業』は、女生徒が教授の家を訪ね、算数や言語学を学ぶという、きわめて小さな出来事から始まります。しかし会話は少しずつ噛み合わなくなり、教師と生徒の立場が反転し、知識を伝えるはずの言葉が相手を縛る道具へ変わっていきます。最後に起きることは、単なる奇抜なオチではありません。言葉が意味を運ぶためのものではなくなったとき、会話の場そのものが暴力の場へ変わるという、恐ろしい実験です。
今回のヌトミック版で注目したいのは、作品を「不条理な名作」として保存するのではなく、言語の音楽性を前面に出して再起動しようとしている点です。『授業』を、戦後ヨーロッパの政治寓話としてだけでなく、声、音、反復、速度、呼吸によって観客の身体に届く作品として捉え直す。そこに、今回の上演をニュース以上のものとして読む理由があります。
1951年のパリで生まれた「喜劇的ドラマ」
イヨネスコの『授業』が初めて上演されたのは1951年、パリのテアトル・ド・ポッシュでした。王道の写実劇のように、人物が目的を持って行動し、対立が整理され、最後に問題が解決される作品ではありません。小さな家庭教師の場で、話題が数学から言語学へ移り、論理が次第にねじれ、教師の態度が変わっていきます。出来事は単純なのに、観客が頼りにしている「理解の手順」だけが崩れていきます。
イヨネスコの初期作品は、しばしば「不条理演劇」という大きな箱に入れられます。サミュエル・ベケット、ジャン・ジュネ、アルチュール・アダモフらと並べられ、第二次世界大戦後のヨーロッパにおける意味の危機を表現した作家として語られます。ただし、不条理演劇という言葉は便利である一方、作品の具体的な仕掛けを見えにくくします。
『授業』の面白さは、何もかもが無意味になることではありません。むしろ、意味があるように聞こえる発言が、会話の中で相手を追い詰める方向へ整然と積み重なっていくことです。教授は最初から怒鳴り続ける人物ではありません。親切そうに振る舞い、教える姿勢を見せ、正しさを説明しようとします。だからこそ、言葉の変質が見えにくくなります。暴力は、いつも露骨な命令として始まるとは限りません。丁寧な説明、専門用語、正しい発音、もっともらしい理屈の中にも、相手の思考を奪う力が含まれています。
英国ロイヤル・コートのアーカイブは、この戯曲を「知識の腐敗」と「言語の武器化」を扱う作品として紹介しています。そこでは、教授が穏やかな学者から支配的な人物へ変わり、生徒が自信を失っていく過程が、教育制度と全体主義の比喩として説明されています。作品の恐ろしさは、教室が特殊な場所ではなく、誰もが正しさを求める場所であることです。
「意味」ではなく「音楽」としての台詞
ヌトミックは今回、『授業』の台詞に登場する「音声」「音素」「音楽」という手がかりを使い、新たな演出を組み立てます。ここでいう音楽は、台詞にBGMを添えるという意味ではありません。言葉が何を指すかだけでなく、どの音が伸び、どこで切れ、どの語が繰り返され、誰の呼吸に合わせて発せられるかを舞台の構造にするということです。
演劇の台詞は、紙の上では意味の列ですが、舞台では声の出来事です。同じ「わかりました」という言葉でも、理解した声、理解したふりをする声、相手に従う声、会話を終わらせたい声では、観客に届く内容が変わります。『授業』では、言葉の意味が崩れていくと同時に、声の関係が変わっていきます。教授の声は説明から命令へ、生徒の声は応答から萎縮へ移ります。観客は台詞の内容を追いながら、その変化を音圧や速度としても受け取ります。
この視点を採ると、イヨネスコの戯曲は「意味不明な会話」ではなく、意味があるように聞こえる音が、身体にどんな影響を及ぼすかを調べる作品になります。言葉は、相手を納得させる前に相手の姿勢を変えます。声が大きくなれば身体は固まり、早口になれば考える時間を失い、同じ語を繰り返されれば、その語に反論すること自体が難しくなります。
額田大志が演出と音楽を兼ねることも、この作品と相性がよいはずです。ヌトミックはこれまで、演劇と音楽の境界を固定せず、俳優の声や身体、反復される動き、舞台上の時間を組み合わせてきました。『授業』では、台詞を「読むもの」から「鳴るもの」へ移す作業が、作品の権力関係を目に見える形へ変換します。教授がどの音を支配し、生徒がどの音を失っていくのか。音楽的な演出は、心理描写を説明するのではなく、支配が成立するリズムを作る可能性があります。
教師と生徒の関係は、知識の問題だけではない
『授業』を教育批判として読むことはできます。しかし、単純に「悪い教授とかわいそうな生徒」の話にしてしまうと、作品の射程が狭くなります。重要なのは、教授が知識を持っているから権力を持つのではなく、知識をどのように配分するかを決められるから権力を持つという点です。
教授は、問題の出し方、答えの認め方、間違いの名付け方を管理します。生徒が正しいことを言っても、教授が「そうではない」と言えば、正しさの位置が移動します。ここでは知識そのものよりも、「何が知識として認められるか」を決める手続きが問題になります。
これは学校だけの話ではありません。職場の研修、専門家と初心者の会話、批評の場、オーディション、稽古場など、経験や肩書きに差がある場所では、同じ構造が生まれます。相手の疑問を未熟さとして処理し、専門用語で会話を閉じ、質問する側にだけ説明責任を負わせる。そうした小さな権力は、暴力的な命令より見つけにくいぶん、長く残ります。
2026年に『授業』を観るとき、観客は教授の異常さを笑って終わることができません。学校や組織の中で、正しい発言をするために、すでに誰かの言葉の型を借りているからです。発言の内容より、発言の形式が評価される場面も増えています。流暢であること、専門的に聞こえること、断定的であることが、真実であることと混同されます。
『授業』は、その混同を舞台上で極端化します。論理があるように見える言葉が、相手を考えられなくする。教育が知識の共有ではなく、服従の訓練になる。生徒が黙るのは、理解したからではなく、反論のための言葉を奪われたからです。この違いを観客に体感させられるかどうかが、上演の大きな課題になります。
「喜劇」は、観客を安全な場所に置かない
イヨネスコは『授業』を「喜劇的ドラマ」と呼びました。実際、作品には滑稽な要素があります。会話の食い違い、妙に大げさな知識、教師の態度の変化、登場人物の不釣り合いな反応など、笑いを生む仕掛けが連続します。しかし、その笑いは観客を安心させるためのものではありません。
笑っているうちに、観客は教授の側の論理に巻き込まれます。話が変だと感じながらも、次に何が出てくるかを聞いてしまいます。意味のない説明に意味を探し、わからない自分のほうに問題があるのではないかと考えます。笑いは、観客が舞台上の権力に参加する入口にもなります。
英国の劇評では、『授業』の結末が現在でも衝撃を持つ一方、演出によっては最後の仕掛けがメッセージを説明しすぎる危険も指摘されています。これは重要な論点です。教授を最初から怪物として見せれば、観客は自分を安全な側に置けます。しかし、教授が親切で、知的で、時に滑稽であるほど、観客はその声を聞き続けてしまいます。ヌトミック版が「音」を軸にするなら、善悪の説明よりも、観客自身が声の流れに乗ってしまう時間をどう作るかが問われます。
笑いと恐怖を同じリズムの中に置くことは、イヨネスコ作品の難しさであり、可能性でもあります。笑いが止まった瞬間に恐怖が来るのではなく、笑っている最中に、笑いの対象が自分の聞き方へ反転する。『授業』は、その不安定な場所を一時間ほどの短編の中に凝縮しています。
パリの小劇場から、世界のレパートリーへ
『授業』の現在性は、初演から時間が経っても上演され続けていることにも表れています。パリのテアトル・ド・ラ・ユシェットでは、イヨネスコの『禿の女歌手』と『授業』が長年にわたって上演されています。小さな劇場で、限られた人数の俳優が、言葉の速度と反復を頼りに観客を巻き込む。その形式は、大規模なスペクタクルとは別の強度を持っています。
この作品が世界各地で繰り返し上演されるのは、翻訳しても筋が伝わるからだけではありません。むしろ、翻訳によって言葉の音が変わるたび、作品の権力構造を別の角度から組み替えられるからです。フランス語で成立した音の連鎖は、日本語では別の反復や母音の響きになります。算数や言語学の場面も、訳語によって観客の理解の速度が変わります。
ルーマニアの国立劇場ブカレストが紹介した近年の上演では、『授業』を全体主義、教化、意味を失った言語の独裁と結びつけながら、家族の中で受け継がれるトラウマの物語として読み替えていました。同じ戯曲が、政治体制の批判にも、家庭内の傷の連鎖にもなります。つまり『授業』は、特定の制度だけを告発する作品ではありません。支配がどの場所で再生産されるのかを、上演ごとに問い直す作品です。
ヌトミックの4都市ツアーも、この戯曲の性質に合っています。札幌、京都、沖縄、神奈川という異なる演劇環境を移動することで、同じ台詞でも空間の響きや観客との距離が変わります。特に神奈川公演はYPAMフリンジ参加公演として予定されています。作品を一つの完成形として固定するのではなく、土地と会場に応じて音の関係を変えながら、ツアー全体を一つの実験にできるでしょう。
関連作品から見える、イヨネスコの系譜
『授業』を入口に、関連する作品を三つ挙げます。
まず『禿の女歌手』です。こちらは、会話が情報交換ではなく、既製の言い回しの交換へ変わる作品です。登場人物は会話を続けていますが、互いの存在を確かめるような言葉には届きません。『授業』が一対一の教育関係を通じて言葉の権力を描くのに対し、『禿の女歌手』は家庭や社交の会話そのものを空洞化させます。二作を続けて読むと、イヨネスコが「意味のない言葉」を笑っているのではなく、意味があるふりをする社会的言語を解体していることが見えてきます。
次に『犀』です。人々が次々に犀へ変わっていくこの作品では、個人が集団の同調圧力に巻き込まれる過程が、より大きなスケールで描かれます。『授業』の教室では教授の言葉が生徒を追い詰めますが、『犀』では社会全体が一つの身振りや価値観へ傾いていきます。どちらも、言葉や論理が人間を自由にするとは限らないことを示しています。理屈は、集団に合わせるための道具にもなります。
そして『椅子』です。老夫婦が、存在しない客のために椅子を並べ続ける作品で、伝えたいメッセージが最後まで届かないことが中心にあります。『授業』では言葉が過剰になり、意味が暴力へ変わります。『椅子』では、伝えたいという欲望が空間を埋め尽くすのに、肝心の相手がいません。二作を並べると、イヨネスコにとってコミュニケーションの失敗は、沈黙だけでなく、語りすぎることによっても起きるとわかります。
日本の現代演劇と接続するなら、言葉を情報ではなく身体の現象として扱う作品群も視野に入ります。たとえばチェルフィッチュの会話劇では、日常語が身体の遅れやずれとともに舞台化されます。青年団の作品では、自然な会話の中にある間や重なりが、人物関係を形作ります。これらはイヨネスコと同じ方法ではありませんが、「台詞は意味を伝えるだけではない」という問いを共有しています。ヌトミック版『授業』は、海外戯曲の翻案というより、日本語の声を使ってこの問いを更新する試みとして受け止められます。
いま「授業」を受けるのは誰か
『授業』というタイトルは、観客にも向けられています。舞台の上で教授が生徒を教える一方、観客もまた、何を見ればよいか、どの言葉を信じればよいかを無意識に学習させられます。舞台は「これは笑う場面です」「ここは怖い場面です」と明示しません。観客は、俳優の声の変化や沈黙の長さを手がかりに、見るためのルールを覚えていきます。
そのルールが途中で壊れると、観客は自分の理解の仕方を疑うことになります。ここに、現在『授業』を上演する意味があります。情報が多く、説明が速く、正解らしい言葉が次々に流通する時代に、言葉を理解することは、言葉に従うことと同じではありません。聞き取ることと、納得することも同じではありません。
ヌトミックが音楽性を軸にこの作品へ向かうなら、観客は「何を言っているか」だけでなく、「どんな速度で、どんな圧力で、誰が誰に向けて言っているか」を聴くことになります。そこでは、教授の台詞だけが危険なのではありません。生徒の沈黙、観客の笑い、繰り返しに慣れてしまう自分の耳も、作品の一部になります。
イヨネスコの『授業』は、古い不条理劇ではありません。言葉が人を自由にするという期待と、言葉が人を従わせる現実の間に、いまも立っています。ヌトミックの上演が成功するかどうかは、戯曲を現代風に説明できるかではなく、観客の身体に「聞くことの危うさ」を残せるかにかかっています。
授業が終わったあと、観客が覚えているのは、教授の理屈でしょうか。それとも、意味になる前の音、繰り返された語、突然変わった声の高さでしょうか。もし後者が残るなら、言葉が暴走する舞台は、劇場の外でも続きます。私たちが誰かの正しさを聞き、誰かの沈黙を見落とし、自分の言葉を整え直す、その瞬間までです。
公演情報
- 作品:ヌトミック 4都市ツアー『授業』
- 原作:ウジェーヌ・イヨネスコ『授業』
- 訳:安堂信也・木村光一
- 演出・音楽:額田大志
- 出演:原田つむぎ、長沼航、朝倉千恵子、高木珠里
- 日程:北海道 2027年1月8日〜10日、京都 1月15日〜17日、沖縄 1月29日〜31日、神奈川 2月5日〜8日
参考情報
Written by
戯曲図書館 編集部
演劇経験者が運営する戯曲検索サービス「戯曲図書館」の編集チームです。 脚本選びのノウハウ、演劇業界の最新情報、公演レポートなどを発信しています。
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