人形浄瑠璃文楽の太夫・竹本織太夫さんが、2028年1月の大阪・初春文楽公演と2月の東京・二月文楽公演にて、江戸中期から続く大名跡「竹本綱太夫」を十代目として襲名します。2026年8月19日に大阪市内で記者会見が行われ、同年9月末からは婦人画報誌上で襲名に向けた新連載「綱太夫列伝 〜Re:でんでん虫〜」もスタートしました。
綱太夫の名跡が復活するのは、2011年に九代目が引退して以来、実に17年ぶりのこと。単なる改名ではなく、江戸中期・宝暦年間から絶えることなく続いてきた「綱太夫内(つなたゆううち)」と呼ばれる芸統が、再び現役の床に戻ってくる出来事です。本稿では、ニュースの要約を越えて、綱太夫という名跡の270年にわたる歩み、歴代が遺した芸、そして十代目を継ぐ現・織太夫が置かれた位置を、戯曲と語りの視点から読み解いていきます。
「綱太夫内」とは何か——270年続く純粋な芸統
まず押さえておきたいのは、「竹本綱太夫」が単なる役者名ではなく、「綱太夫内」と呼ばれる一つの流派そのものを指す名前だということです。
江戸後期の浄瑠璃研究書『増補浄瑠璃大系図』を著した四代目竹本長門太夫は、綱太夫の名跡について「芸統に混乱がなく、一門のみにて継承されてきた」と記し、これを「綱太夫内」という独特の言葉で表現しました。歌舞伎や文楽の名跡は、しばしば血縁や芸系を越えて継承され、時に系譜が交錯します。しかし綱太夫だけは、初代以来、同じ流派のなかで一門相伝のかたちで受け継がれてきた、きわめて珍しい名跡なのです。
後述する八代目竹本綱太夫自身も、著書『でんでん虫』のなかで次のように書き残しています。
「綱太夫の代々は『浄瑠璃大系図』にも記されているように『綱太夫内』として斯道に重きをなして来ましたのは、その芸統に混乱がなく、名人を輩出したからでありましょう」
初代は二代目竹本政太夫(竹本播磨少掾)の門から出て、二代目は初代式太夫の弟子が継ぎ、三代・四代・五代と続いた後、六代目で豊竹山城少掾(当時の名跡は別)の門下に移ります。この山城少掾は三代目と同門であり、師匠没後は四代目の預かりだったため、芸統は途切れていません。七代目も山城少掾の弟子、八代目から見れば祖父師匠にあたる三代目津太夫(後の七代目綱太夫)が継ぎました。
今回、十代目を襲名する六代目竹本織太夫は、八代目綱太夫の長男・初代豊竹咲太夫(2024年死去、人間国宝)に8歳で入門しています。つまり、師匠の父が綱太夫、師匠の実家の名跡を継ぐかたちです。「師匠が授けてくれた名跡」という本人の言葉には、こうした入り組んだ、しかし一本の筋が通った系譜の重みがあります。
初代綱太夫——「わざ知り」と呼ばれた新ろうじの名人
綱太夫内の起点である初代竹本綱太夫(本名・平野屋嘉助、生年不詳〜1776年)は、大坂・南堀江の新ろうじ(新露路)に居を構えたことから「新ろうじ」と通称されました。
初代の芸の特徴は、「わざ知り」、今日でいう技巧派と評されたこと。『増補浄瑠璃大系図』などによれば、彼は三味線をできるだけ派手に賑やかに弾かせ、太夫の語り口はむしろ陰気に沈ませる。その対比のなかから人情を浮かび上がらせるという独特の演出を一生追求しました。後世「綱太夫風」と呼ばれる芸風の原型です。
明治以降の浄瑠璃論客・杉山其日庵は『素人浄瑠璃講釈』で「絃師を十分陽気に弾かせて、語り方は成る丈け陰気に運んで、夫を派手に聞かせて、人情を漂はする事を、一生研究した」と記し、戦後の演劇評論家・武智鉄二も「三味線を陽気にひかせ、語り口はなるたけ陰気に運び派手に聞かせる工夫をした人」と評しました。
さらに武智は「綱太夫風も産み字が多く、曲節が派手になっているが、それを二の音に落として、陰気に聞かせることで情をつないだ」と分析し、三味線の名人・清水町団平(初代豊澤團平)が「一生を綱太夫風に凝った」ことも伝えています。綱太夫風は、太夫だけでなく三味線奏者の芸にも深く影響を与えた、文楽の重要な技法なのです。
初代は作曲・改作にも手腕を発揮しました。
- 『関取二代鑑』「秋津嶋切腹の段」(原題『関取二代勝負附』、1768年初演)——綱太夫章句として伝わる
- 『桜鍔恨鮫鞘』「鰻谷の段(無筆書置)」(原題『裙重浪花八文字』、1769年初演)——初代綱太夫による一幕物化
- 『心中宵庚申』「在所の段(上田村の段)」——綱太夫章の六行本が現存
- 『平家女護島』「鬼界ヶ島の段」——鶴澤又蔵との「改正章句」
いずれも、今日の文楽・歌舞伎の舞台に生きている作品ばかりです。『心中宵庚申』「上田村の段」については、八代目綱太夫が1965年にNHKテレビで「復曲」として語ったという記録も残されています。初代の章句が、二百年を越えて八代目の口から蘇ったわけです。
二代目「猪熊風」——『摂州合邦辻』を今の形にした人
もう一人、綱太夫内の芸統を語るうえで欠かせないのが、二代目竹本綱太夫(1748-1805年、通称・猪熊)です。
元は京都・猪熊仏光寺で菅大臣縞を織る津國屋という織物業を営んでいた素人の名人で、周囲の勧めで太夫となった異色の経歴の持ち主でした。1782年ごろに二代目綱太夫を襲名。本拠地は京都に置いていたため、初出座の記録が残りにくい太夫でもあります。
二代目の功績として特に大きいのは、1792年に大坂・道頓堀東芝居で語った『摂州合邦辻』「下の巻 切」です。これは1773年に二代目豊竹此太夫が初演した段ですが、二代目綱太夫が全面的に書き直して上演し、「古今の大当り」を取りました。この二代目版「合邦」こそが、現在まで文楽・歌舞伎の両方で上演されている「合邦住家の段」のテキストです。
「聞く子や妻は内と外、顔と顔とは隔たれど。心の隔て泣き寄りの。親身の誠ぞ哀れなる」——継母・玉手御前と義理の息子・俊徳丸、父・合邦の悲劇を描く、あの名高い母子の情を謳うフシは、以来「猪熊風(二代目綱太夫風)として崩せない」ものとして現代まで伝わっています。
歌舞伎で「合邦」を観たことがある人は多いはずです。玉手御前の役は坂東玉三郎、片岡仁左衛門、尾上菊之助らが代々勤めてきた難役ですが、そのテキストと旋律の骨格を定めたのが、二代目綱太夫だったという事実は、意外に知られていません。
八代目綱太夫——戦後文楽を背負った「鬼才」
話を近代に進めます。十代目を継ぐ織太夫さんの師匠・咲太夫の実父である八代目竹本綱太夫(1904-1969年)は、戦後の文楽史において決定的な位置を占める太夫でした。
近代義太夫の最高峰とされる豊竹山城少掾の薫陶を受け、初めは「山城の十六ミリ」と小ぶりに評されたものの、やがて持ち前の体力と気迫で「鬼才」と呼ばれるようになります。師・山城少掾の引退後は、文字通り戦後文楽の第一人者として活躍しました。
特筆されるのは、1959年4月、新橋演舞場で歌舞伎俳優・松本幸四郎(八代目、後の初代白鸚)と組んで上演した『嬢景清八島日記』。歌舞伎俳優と文楽太夫が同じ舞台で組むという前例のない試みで、大評判となりました。文楽の床と歌舞伎の役者が交わる現在の「俳優座公演」や各種コラボレーションの源流に位置する企画です。
また、1938年から始まった十世竹沢弥七との三味線コンビは「これ以上なかった」とまで評され、素浄瑠璃「綱弥会」として独自の人気を獲得しました。綱太夫内が「太夫と三味線の対比で情を立てる」初代以来の芸風を持っていることを思い出すと、太夫と三味線が別名で結びついて会を名乗る「綱弥会」というスタイル自体が、綱太夫らしい発想だと言えるでしょう。
八代目は著書『でんでん虫』を遺しており、今回織太夫さんが始めた新連載のタイトル「綱太夫列伝 〜Re:でんでん虫〜」の「Re:」は、まさにこの八代目の著書への返歌であり、同時に、師の父であり、綱太夫内の近代の象徴である存在への返歌でもあります。襲名披露の2028年に向けて、八代目の記した文楽観を、曾孫弟子にあたる現・織太夫がどう引き受けていくのか——連載はその経過報告でもあるのです。
十代目を継ぐ「六代目竹本織太夫」という人
ここで、十代目綱太夫を襲名する当事者の歩みを整理しておきましょう。
- 1983年(8歳):八代目綱太夫の長男・豊竹咲太夫(当時)に入門。豊竹咲甫太夫(さきほだゆう)を名乗る
- 2018年:六代目竹本織太夫を襲名
- 2024年:師・初代豊竹咲太夫が死去
- 2026年8月19日:十代目竹本綱太夫襲名を発表
- 2026年9月末:婦人画報にて連載「綱太夫列伝 〜Re:でんでん虫〜」開始
- 2028年1月:大阪・初春文楽公演にて襲名披露
- 2028年2月:東京・二月文楽公演にて襲名披露
「八歳で入門」という年齢に注目してください。これは、太夫の修業において決して早すぎる年齢ではありません。文楽の太夫は、十代後半で入門しても遅いとは言わない世界ですが、「八代目綱太夫の長男の家」という環境のなかで、幼い頃から義太夫節に浸って育ったことが、彼のキャリアの地盤を形成しています。
2023年6月には、法善寺にある初代竹本綱太夫の墓所にて、「六代目竹本綱太夫花立1本を孔再加工工事し、六代目竹本織太夫花立を1本新設した」との記録もあります。襲名の数年前から、現在の織太夫さんは綱太夫内の歴代と自身を同じ墓前で結び直す作業を続けていたことがうかがえます。
「17年ぶりの復活」が持つ意味
今回の襲名の最大のポイントは、綱太夫の名跡が「17年ぶり」に復活する点にあります。九代目竹本綱太夫(1932-2015年)は、戦後文楽を支えた切場語りの一人で、2010年代初めに引退しました。以後、綱太夫の床は空席のままだったのです。
名跡が長期間空くことは、文楽の世界では珍しくありません。むしろ、安易に継がせず、その名に見合う芸を備えた人物が現れるまで待つのが、伝統芸能の作法です。たとえば、豊竹若太夫の名跡は五代目の死去(1967年)以降、半世紀以上空席でしたが、2024年に豊竹呂太夫が六代目として襲名し、話題を集めました。
綱太夫についても同様です。織太夫さんの襲名は、「空席を埋めるため」ではなく、「本人の芸と、師から受けた縁、綱太夫内という芸統が整った」という判断が重なった結果と見るべきでしょう。
さらに重要なのは、綱太夫内の近代の象徴である八代目は、織太夫さんが入門した1983年にはすでに故人(1969年没)であり、師の咲太夫(八代目の長男)も2024年に没していることです。「師の師」も「師」もすでに居ない状態で、系譜の象徴である名跡を継ぐ——その意味を、本人は8月の記者会見で「師匠が授けてくれた名跡」と表現しました。
襲名作に注目すべき戯曲——合邦・鬼界ヶ島・宵庚申
2028年の襲名披露では、歴代綱太夫ゆかりの演目が選ばれる可能性が高いと予想されます。綱太夫内の芸統を踏まえると、特に以下の作品に注目したいところです。
『摂州合邦辻』「合邦住家の段」
二代目綱太夫が今日の形に書き直した代表作。玉手御前の継子に対する歪んだ愛情、父・合邦の娘への断腸の思いを、太夫一人がすべての登場人物を語り分ける切場の名作です。歌舞伎ファンにとっても馴染み深い演目で、文楽と歌舞伎を往復しながら観ることで、台本と演出の違いが明確に見えてきます。
『平家女護島』「鬼界ヶ島の段」
近松門左衛門が67歳のときの作で、1719年に二代目竹本義太夫(初代政太夫)が初演。初代綱太夫が1772年に鶴澤又蔵と「改正章句」で復活語りをし、綱太夫内の持ち役となりました。流刑地の鬼界ヶ島に残される俊寛僧都の悲劇は、歌舞伎でも仁左衛門や中村吉右衛門が勤めてきた名場面です。
『心中宵庚申』「上田村の段」
八代目綱太夫が1965年にNHKテレビで復曲した、初代綱太夫章句の演目。近松門左衛門の心中物のなかではやや地味な位置にありますが、綱太夫内にとっては初代と八代目を結ぶ「復曲」の象徴として重要な作品です。
『近江源氏先陣館』「佐々木高綱隠家の段」
初代綱太夫が大当たりを取り、「佐々木の綱」と呼ばれる愛称まで生まれた由緒ある段。綱太夫の名跡と、佐々木高綱という源平合戦の武将をかけたエピソードは、綱太夫内のアイデンティティと直結しています。
『嬢景清八島日記』
八代目綱太夫が1959年に松本幸四郎(八代目)と組んで新橋演舞場で上演し、文楽と歌舞伎の交流史に残る舞台を作った演目。十代目が「現代の協働」の形で何かを打ち出すとすれば、八代目のこの試みが参照項になるはずです。
戯曲を読む立場からの楽しみ方——「章句」という視点
ここで、戯曲図書館らしい視点をひとつ加えておきたいと思います。それは、「章句(しょうく)」という視点です。
文楽の浄瑠璃本は、作者(近松門左衛門、並木宗輔、竹田出雲二世など)が書いた原本と、太夫が後世に手を入れた「章句」とが複層的に存在しています。先ほど挙げた『摂州合邦辻』「合邦住家の段」は、原作は菅専助・若竹笛躬ですが、現行上演の形を定めたのは二代目綱太夫の書き直しです。『桜鍔恨鮫鞘』「鰻谷の段」は、原題の長編『裙重浪花八文字』から初代綱太夫が一幕物として再構成したもの。『心中宵庚申』「上田村の段」も、同じく初代綱太夫の章句として知られます。
つまり、「作者」と「章句を定めた太夫」は別人なのです。これは現代の戯曲読者から見ると、「舞台で上演されるテキスト」と「出版されている戯曲」のあいだに、太夫という中間の作家がいるということを意味します。綱太夫内は、こうした「章句を遺す太夫」を代々輩出してきた流派であり、十代目にもその役割が期待されます。
戯曲として浄瑠璃を読むとき、作者の原本だけでなく、どの太夫がどのように書き直し、どのような節付けを施したかという層を意識すると、同じ作品でも違う顔が見えてきます。襲名披露の舞台を観る前に、床本の章句と原本を読み比べてみる——これは、文楽・歌舞伎を観る人、脚本を書く人の双方にとって、おそらくもっとも贅沢な予習になるはずです。
「綱太夫列伝 〜Re:でんでん虫〜」をどう読むか
婦人画報で始まった新連載は、襲名披露の2028年初頭までの約1年半、歴代の綱太夫をひもとく企画です。八代目の著書『でんでん虫』の「Re:」というタイトルは、単なるパロディではなく、連載を通じて現・織太夫が綱太夫内の歴史と対話していくプロセスそのものを示していると読めます。
連載を追うことで、以下のような視点が得られるはずです。
- 初代から九代目まで、歴代それぞれが何を得意とし、何を遺したか
- 綱太夫内と他の流派(住太夫、政太夫、豊竹山城少掾系統など)との関係
- 戦後文楽における八代目の位置づけと、咲太夫を経て織太夫に至る近代の継承
- 襲名披露に向けて現・織太夫が何を考え、どう準備しているか
歌舞伎や文楽の襲名は、しばしば「ニュース」として発表された後、襲名披露興行までのあいだに書籍・雑誌連載・ドキュメンタリーといった「補助線」が引かれるものです。綱太夫内のように芸統が明確で、過去の資料も豊富な名跡の場合、こうした補助線がファンの理解を大きく助けます。
まとめ——270年の芸統が、現代の床に戻る
竹本織太夫さんの十代目竹本綱太夫襲名は、単に名前が変わる出来事ではありません。江戸中期の宝暦年間以来、一門相伝のかたちで270年にわたって受け継がれてきた「綱太夫内」という流派そのものが、17年ぶりに現役の床に戻ってくるという、文楽史の節目となる出来事です。
初代が『鰻谷』『鬼界ヶ島』を章句として残し、二代目が『合邦』を今日の形に定め、八代目が歌舞伎俳優との協働で戦後文楽を切り拓いた——そうした歴代の仕事を、十代目はどう引き受け、何を加えるのか。襲名披露までの1年半、婦人画報の連載を手がかりに、歴代綱太夫の章句を読み直し、音源が残っていれば八代目や九代目の録音を聴き、2028年の床に向けて静かに耳を澄ますのが、浄瑠璃を愛する側のもっとも豊かな待ち方だと思います。
戯曲図書館では、文楽・人形浄瑠璃の床本やその章句の研究を、今後も継続して紹介していきます。襲名のニュースをきっかけに、浄瑠璃本という形で遺されたテキストの奥行きに触れてみてください。
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Written by
戯曲図書館 編集部
演劇経験者が運営する戯曲検索サービス「戯曲図書館」の編集チームです。 脚本選びのノウハウ、演劇業界の最新情報、公演レポートなどを発信しています。
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