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新宿梁山泊『海底骨歌 / 해저골가』はなぜいま必要なのか──長生炭鉱水没事故とテント演劇の公共性

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#新宿梁山泊#海底骨歌#長生炭鉱#テント演劇#金守珍#趙博
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事故を題材にした新作、というだけでは足りない

2026年秋、新宿梁山泊が三都市テントツアーとして上演する『海底骨歌 / 해저골가』は、1942年2月3日に山口県宇部市で起きた長生炭鉱水没事故を題材にした新作です。作は趙博さん、演出は金守珍さん。公式告知では「消された歴史が、海の底から立ち上がる」という言葉とともに、事故から84年を経た現在にこの題材を舞台化する意味が強く打ち出されています。

ただ、このニュースを「史実を扱う社会派演劇が上演される」という一行で処理してしまうのは、あまりにも惜しいです。重要なのは、長生炭鉱をめぐる記憶が、いまようやく水面へ押し戻されつつある時間と、それを紫テントが受け止めることの意味が重なっている点にあります。

長生炭鉱の事故は、単なる過去の悲劇ではありません。遺骨収容、国家責任、在日コリアンと日本社会の記憶の断絶、そして戦後演劇が何を公の場に持ち出してきたかという問題まで、いまなお現在形で続いている出来事です。だからこそ『海底骨歌』は、史実再現ドラマではなく、忘却と上演の距離を問う作品として見るべきでしょう。


長生炭鉱水没事故とは何だったのか

まず、事故の輪郭を確認しておきます。長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会によれば、1942年2月3日朝、宇部市の床波海岸から海底へ延びる長生炭鉱の坑道で異常出水が起き、午前8時ごろには坑道全体が水没しました。犠牲者は183人で、そのうち136人が朝鮮人労働者でした。海面から突き出た二本のピーヤだけが、いまも現地に残るほぼ唯一の遺構です。

ここで見落としてはいけないのは、この事故が単なる労災ではなく、戦時下の労働動員と差別の構造の中で起きたことです。長生炭鉱は海底坑道という危険性の高い炭鉱で、比較的多くの朝鮮人労働者が働かされていたため、「朝鮮炭鉱」とも呼ばれたとされています。Dialogue for Peopleの2026年5月の記事でも、当時の増産体制や、日本がすでに批准していたILO第29号条約の趣旨との矛盾が指摘されていました。事故は自然災害のように語れるものではなく、国家と産業の側が作り出した危険の上に起きたのです。

しかも、その後の扱いがさらに深刻でした。犠牲者の多くは坑内に取り残されたままで、事故自体も長く地域史の周縁へ押しやられてきました。KNNの特集では、犠牲者名簿の整理や遺族会の活動、そして2024年以降の坑口発見・潜水調査の進展が紹介されています。つまり長生炭鉱は、1942年の事故だけで終わった話ではなく、戦後80年以上にわたる沈黙の構造そのものが問題なのです。

この「事故」ではなく「沈黙の構造」をどう舞台にするか。そこが『海底骨歌』の核心になるはずです。


いま長生炭鉱を上演する理由

『海底骨歌』がいま切実なのは、長生炭鉱をめぐる現実がここ数年で大きく動いたからです。刻む会の長年の運動に加え、近年はクラウドファンディングを通じた潜水調査や、坑口の再発見、遺骨収容に向けた実地の試みが大きく報じられるようになりました。一方で、2026年2月には調査中のダイバーが亡くなる痛ましい事故も起き、民間主導の調査が抱える危険や、国が責任を引き受けないことの重さもあらわになりました。

ここで演劇にできることは何でしょうか。遺骨を収容すること自体は行政や専門家の仕事です。しかし、なぜこの問題がこれほど長く放置されたのかを、身体と声のレベルで観客に受け渡すことは、演劇にしかできない仕事です。特に長生炭鉱のように、海底に沈み、現場そのものが見えにくい事件では、出来事を「想像可能なもの」に戻す媒介が必要になります。

温泉ドラゴンと韓国の劇団58ROUTEが2026年6月に上演した『長生炭鉱――生きたかった』は、まさにその先行例でした。史実を現在の市民運動と接続し、過去と現在を往復する構成で、この事故がいまの社会へ突き返している問いを可視化した上演です。そこへ新宿梁山泊が続くことには大きな意味があります。同じ題材でも、劇団が変われば、舞台の身体の使い方、観客との距離、記憶の立ち上げ方が変わるからです。

『海底骨歌』がもし、長生炭鉱の史実を説明するだけの作品なら、資料映像や講演に勝てません。しかし新宿梁山泊がやろうとしているのは、おそらく説明ではなく召喚です。海底に沈んだ声、消された名、見えない坑道、帰れなかった身体。その不在を、音楽とテントと俳優の肉声で「いまここ」に呼び出すことです。


なぜ紫テントなのか

この題材に紫テントが選ばれたことは、作品の成否を左右するほど重要です。新宿梁山泊は1987年の旗揚げ以来、唐十郎作品を中心に、街に近い場所で過剰な身体性と祝祭性を押し出す上演を続けてきました。テント演劇は、閉じた劇場の中で完成品を見せるだけの形式ではありません。設営し、去り、別の土地へ移る移動体であり、その土地の記憶と一時的に接続する装置でもあります。

長生炭鉱のような題材において、この形式は非常に理にかなっています。なぜなら、事故現場そのものが海岸線にあり、しかも長年「なかったこと」にされてきたからです。固定された劇場建築の中で安全に鑑賞される歴史劇としてよりも、仮設の空間がその場限りの共同体を作り、観客の身体ごと巻き込む出来事として立ち上がるほうが、はるかに切実だからです。

公式情報によれば、本作は大阪朝鮮中高級学校、宇部市床波海岸付近、赤坂サカス広場を巡回します。この巡回先の並びも象徴的です。大阪朝鮮中高級学校は在日コリアンの歴史と現在を背負う場ですし、宇部は事故の現場そのものです。東京公演は、ローカルな歴史を「地方の出来事」に閉じ込めず、首都圏の観客へ返す回路になります。つまりツアーの導線自体が、題材の政治性を語っています。

ここで思い出したいのは、テント演劇がもともと「劇場に入れないもの」を外へ持ち出すための形式だったことです。唐十郎の紅テントも、寺山修司以後のアングラ演劇も、公認された文化施設の外で、都市の裂け目に言葉と身体を差し込む実践でした。『海底骨歌』がその系譜の上にあるなら、目指すべきは厳粛な慰霊劇ではなく、忘却の制度に穴をあける上演でしょう。


趙博と金守珍の組み合わせが示すもの

今回の座組にも注目すべき点があります。趙博さんは音楽家として知られますが、語りと歌のあいだにある声の運動で、歴史や境界の問題を観客へ直接届けてきた表現者です。金守珍さんは新宿梁山泊を率い、唐十郎作品や歴史性の強い作品を、祝祭性と痛みを同時に持つ舞台へ変換してきました。

この二人の組み合わせは、長生炭鉱を「資料」としてではなく「響き」として扱う可能性を示しています。長生炭鉱の悲劇は、数字だけ見れば183人の犠牲という惨事です。しかし、舞台が扱うべきなのは人数そのものではなく、名前を呼ばれず、海の底で時間を止められた人々の気配です。そこでは説明的な台詞よりも、歌、リズム、呼吸、反復のほうが強く働くかもしれません。

実際、5月のプレ公演『沈黙の海、骨は語る』でも、趙博さんの書き下ろし楽曲と韓国舞踊を織り交ぜ、壮大な音楽劇の入口とする方針が示されていました。長生炭鉱をめぐる記憶は、日本語だけで完結しません。朝鮮語の不在、翻訳の遅れ、名簿の断片性、遺族との距離。そうした断絶を考えると、音楽劇的な発想はかなり本質的です。言語だけでは届かない領域を、別の身体の回路で運ぶ必要があるからです。


戯曲図書館の読者がここからたどりたい関連作品

このトピックに関心を持った読者には、まず「歴史を舞台にする」とはどういうことかを、複数の系譜で読み比べてほしいです。

ひとつは、唐十郎から新宿梁山泊へ続くテント演劇の系譜です。たとえば、唐十郎の都市感覚や祝祭と崩壊の美学に触れるなら、唐戯曲の再演を論じた『黒いチューリップ』再演は何を引き継ぐのかが入口になります。そこから唐十郎プロフィールに進むと、なぜテントが単なる上演形式ではなく、戦後演劇の方法だったのかが見えやすくなります。

もうひとつは、在日コリアンの歴史と家族の記憶を舞台化してきた系譜です。鄭義信さんの作品群は、その代表的な入口です。鄭義信プロフィールから『焼肉ドラゴン』『千年の孤独』へ進むと、民族や労働や移民の問題が、説明ではなく生活の会話として立ち上がる感覚をつかみやすいでしょう。

さらに、今年すでに上演された『長生炭鉱――生きたかった』も重要な参照点です。同じ事故を扱いながら、新宿梁山泊がどう異なる身体を与えるのかを見ることで、史実の舞台化において劇団の方法論がどれほど作品を変えるかがわかります。題材が同じでも、舞台が違えば「記憶の見え方」が変わるのです。


これは過去を悼むだけの舞台ではない

『海底骨歌 / 해저골가』を前にして、私たちはしばしば「忘れてはならない歴史」という言い回しを使いたくなります。もちろん、それは間違いではありません。けれども、この言葉だけでは少し足りません。なぜなら長生炭鉱は、単に記憶されていないのではなく、記憶されないままでも社会が回るように処理されてきた歴史だからです。

だからこそ、この作品に期待したいのは、過去への同情よりも、現在への不穏さです。海底に残された遺骨、責任を引き受けない国家、民間の手で続く調査、そしてそれをようやく舞台へ持ち出す表現者たち。ここには、「私たちは何を見ないままで生きているのか」という現在形の問いがあります。

テント演劇は、快適な鑑賞環境を保証する形式ではありません。仮設で、ざわつきがあり、外の気配を完全には遮断しません。けれども、だからこそ現実から切り離されすぎない。『海底骨歌』にとって、その不安定さはむしろ必要条件に見えます。長生炭鉱の歴史もまた、安定した記念碑の中にきれいに収まるものではないからです。

新宿梁山泊がこの題材を本当に自分たちのものとして引き受けられるなら、『海底骨歌』は単なる社会派新作には終わりません。それは、テント演劇が2026年にまだ何を公の場へ運べるのかを示す試金石になるはずです。


まとめ

『海底骨歌 / 해저골가』が重要なのは、長生炭鉱水没事故を扱うからだけではありません。遺骨収容運動が続く現在、在日コリアンの歴史と戦時労働の問題がなお未解決のまま残る現在に、紫テントという移動式の公共空間でこの題材を立ち上げるからです。

長生炭鉱は、過去の出来事であると同時に、いまの社会が何を見落としているかを映す鏡でもあります。『海底骨歌』がその鏡を曇らせずに観客の前へ差し出せるなら、この作品は「歴史を扱った演劇」ではなく、歴史がまだ終わっていないことを告げる演劇になるでしょう。


参考情報

  • 新宿梁山泊『海底骨歌 / 해저골가』公演情報
  • 長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会
  • Dialogue for People「長生炭鉱 遺骨収容プロジェクトの今後について」
  • KNN「장생탄광 수몰 83년…조선인 강제 징용자들, 침묵의 바다에서 돌아오다」

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Written by

戯曲図書館 編集部

演劇経験者が運営する戯曲検索サービス「戯曲図書館」の編集チームです。 脚本選びのノウハウ、演劇業界の最新情報、公演レポートなどを発信しています。

公開日: 2026-08-09

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