東温の『十二夜』は、地方公演の一報では終わりません
愛媛県東温市で上演された伊予の国シェイクスピア第4弾『十二夜』は、単に「地方でシェイクスピアが上演された」というニュースではありません。むしろ注目すべきなのは、古典を上演したことそのものより、誰がその古典を担ったのかです。
この企画は、2022年度に俳優・演出家の斉藤かおるさんが立ち上げたプロジェクトで、毎回オーディションを行い、市民が中心となってシェイクスピア作品を創り上げています。第4弾となる今回は『十二夜』を選び、20名規模の市民キャストが作品の中核を担いました。エントレの記事では、この企画を「市民参加型」ではなく「市民中心型」と明言していました。この言い方は、とても重要です。
「参加型」という言葉には、主役は別にいて、市民はそこへ招かれる側だという響きがあります。しかし「中心型」と言うとき、作品の主体は最初から市民にあります。つまりこの企画は、地域の人々が古典を“体験する”場ではなく、地域の人々が古典を“所有し直す”場として設計されているのです。
この違いがあるからこそ、東温の『十二夜』はイベント情報欄の一件で終わらず、日本の地域演劇がどこまで古典と対等に向き合えるかを考えさせる話題になっています。
なぜ東温市で、なぜいまシェイクスピアなのでしょうか
背景には、東温市が進める「アートヴィレッジとうおん構想」があります。公式サイトによると、この構想は、都市の利便性と農村の緩やかな暮らしが調和する東温市で、アーティストの受け入れ促進と、芸術に気軽に触れられる環境づくりを進め、「舞台芸術の聖地」を目指すものです。地域文化を発信する坊っちゃん劇場を核にしながら、仕事、学び、創作、上演、交流までを一つの循環として組み立てている点に特徴があります。
ここで面白いのは、東温市が舞台芸術を観光の添え物として扱っていないことです。アートヴィレッジとうおん構想では、小劇場シアターNEST、多目的稽古場、交流サロンを整備し、芸術にまだ距離のある人にとっても「文化芸術の入口」として機能させることが目指されています。つまり、上演のための箱を作るだけではなく、演劇に関わる人が増える環境を作ろうとしているのです。
この文脈の中で考えると、伊予の国シェイクスピアがシェイクスピア作品を選んでいる理由も見えてきます。シェイクスピアは世界的な古典である一方、演じる人にとっては言葉・関係・身体の訓練の宝庫です。しかも悲劇、喜劇、歴史劇まで幅が広く、シリーズ化にも向いています。東温市にとっては、単発の話題作を呼ぶよりも、継続的に人が育つ題材としてシェイクスピアが機能しているのでしょう。
東温アートヴィレッジセンターの公式サイトでも、伊予の国シェイクスピア『十二夜』の増席案内が出ていました。これは、行政や施設の構想と、市民が創る舞台が切り離されていない証拠です。地域政策と演劇実践が、珍しく同じ方向を向いている例だと言えます。
『十二夜』は、市民劇と驚くほど相性のいい喜劇です
今回取り上げられた『十二夜』は、シェイクスピア喜劇の中でも、とくに「役を演じること」そのものが物語の核にある作品です。船の難破で双子の兄と離ればなれになったヴァイオラが、男装して“シザーリオ”として生き延びるところから物語は動き始めます。彼女は仕える公爵に恋をし、公爵はオリヴィアに恋をし、オリヴィアは“シザーリオ”に恋をします。そこへ双子の兄セバスチャンが現れ、恋と誤認が雪だるま式に転がっていきます。
Shakespeare Birthplace TrustやRSCが紹介しているように、『十二夜』は喪失から始まりながら、変身、仮装、欲望、勘違い、祝祭を通じて、人が自分の見たいものを相手に投影する喜劇です。笑える作品でありながら、「人は相手を本当に見ているのか」「役割を脱いだときに誰が残るのか」という問いを含んでいます。
この構造は、市民劇と相性がいいです。なぜなら、市民劇にはプロのスターシステムのような固定イメージが比較的少なく、観客もまた「この人は俳優だからこの役」と先入観を持ちにくいからです。男装、取り違え、恋の錯綜といった『十二夜』の仕掛けは、名の通った俳優のイメージで引っ張るより、むしろ関係の変化そのもので見せたほうが面白くなることがあります。
さらに、今回の公演情報を見ると、オーディションを経た市民キャストに加え、坊っちゃん劇場の田中悠貴さん、ギター弾き語りのhydroさん、あいテレビの滝香織アナウンサーが特別出演しています。これは、市民だけで閉じるのでも、プロだけで固めるのでもない編成です。地域の表現資源をゆるやかにつなぎながら、作品の核はあくまで市民に置く。このバランス感覚が、『十二夜』の「境界が揺れる世界」とよく呼応しています。
「市民参加型」ではなく「市民中心型」が意味するもの
私はこの企画の核心は、作品選定以上にこの言葉にあると思います。市民中心型とは、練習の現場から上演の責任までを市民が引き受けることです。エントレの記事では、演技経験の有無を問わず募集し、毎回オーディションで主要キャストも選ばれることが紹介されていました。つまり、ワークショップの成果発表ではありません。最初から作品として成立させる前提で、市民が選ばれ、鍛えられ、舞台の中心に立ちます。
ここで重要なのは、「市民だから完成度はほどほどでよい」という発想に寄りかからないことです。むしろシェイクスピアを選ぶことで、要求水準をあえて上げています。膨大な比喩、言葉のリズム、役柄の反転、群像の交通整理など、どれも楽ではありません。だからこそ、そこで得られる達成感も大きいです。斉藤かおるさんが語るように、世界最高峰のセリフ劇を経験することは、その後の人生に大きな自信をもたらしうるのでしょう。
この発想は、地域演劇を「福祉」や「余暇」の枠だけに閉じ込めません。もちろん演劇には居場所づくりの力がありますが、それだけで終わると作品はしばしば甘くなります。伊予の国シェイクスピアが面白いのは、居場所づくりと作品づくりを分けていないことです。市民のために難度を下げるのではなく、市民だからこそ難しい作品に向かう。そこにこの企画の誇りがあります。
地域の演劇では、ときどき「地元愛」は強いけれど作品の言葉が弱い、ということが起きます。しかし『十二夜』のような古典を据えると、地元性だけでは押し切れません。台詞をどう立ち上げるか、関係をどう届けるか、喜劇の速度をどう保つかが問われます。だからこの企画は、地域文化振興であると同時に、俳優教育でもあり、観客教育でもあります。
日本のシェイクスピア受容の中でも、東温の試みはかなり独特です
日本でシェイクスピアを上演する方法は、これまで大きく三つありました。ひとつは、新劇・翻訳劇として正面から扱う方法です。ひとつは、蜷川幸雄さんの『NINAGAWA十二夜』のように、日本の美術や歌舞伎的身体を通して大胆に翻案する方法です。もうひとつは、学校、公共劇場、地域プロジェクトで教育的・共同体的に扱う方法です。
東温の伊予の国シェイクスピアは、この三つ目に属しながら、単なる教育普及事業にとどまっていません。原作には小田島雄志訳を用い、企画・演出・上演台本を斉藤かおるさんが担い、市民中心の上演へ落とし込んでいます。古典の格を下げず、しかし地域の身体で届くように手触りを変える。この中間作業こそ、実は最も難しい仕事です。
シェイクスピアは「普遍的」だとよく言われますが、その言葉は便利すぎて危ういです。本当に普遍的なら、どこで誰が演じても自動的に伝わるはずですが、実際はそうではありません。比喩も笑いも恋愛感情も、地域や時代ごとに翻訳し直さなければ届きません。東温の『十二夜』が示しているのは、普遍性とは最初から備わった性質ではなく、上演のたびに作り直されるものだという事実です。
だからこの企画は、地方都市が“世界の古典を借りる”話ではありません。東温市が、自分たちの文化政策、自分たちの俳優、自分たちの観客を通して、シェイクスピアをもう一度成立させる話です。ここに、地域演劇の未来にとってかなり大きなヒントがあります。
この話題からたどりたい関連作品
『十二夜』に興味を持った人は、まず原作そのものを読むのがおすすめです。恋愛喜劇として読むと軽やかですが、喪失、階級、自己演出、残酷なからかいまで含んだ作品だと気づくと、見え方が変わります。とくにマルヴォーリオが仕掛けられる悪ふざけは、祝祭の裏側にある排除の感覚を強く残します。
次に触れたいのは『夏の夜の夢』です。こちらも恋の錯綜と祝祭性を持つ喜劇ですが、『十二夜』より幻想の比重が高く、共同体全体が夢に巻き込まれていきます。伊予の国シェイクスピアのような市民中心の企画では、今後この作品をどう扱うのかも興味深いところです。
そして日本での翻案史を見るなら、蜷川版の『NINAGAWA十二夜』は外せません。歌舞伎の形式や日本的な視覚美を通してシェイクスピアを大きく置き換えた仕事で、同じ『十二夜』でも、地域で自分たちの言葉に引き寄せる東温の方法とは対照的です。片方は壮大な翻案、もう片方は共同体による再所有です。どちらも、古典を現代に生かすための別の答えになっています。
悲劇に進みたい人には『ハムレット』もよい流れです。『十二夜』で見えた「演じること」「自分を偽ること」「喪失から始まること」は、『ハムレット』ではもっと切迫した形で表れます。喜劇から悲劇へ進むと、シェイクスピアの人物造形がなぜ何百年も上演され続けるのかがよくわかります。
まとめ
伊予の国シェイクスピア第4弾『十二夜』が大事なのは、地方でシェイクスピアを上演したからではありません。市民が古典の中心に立ち、地域の文化政策がそれを支え、しかも作品としての難度を下げていないからです。
東温市はアートヴィレッジとうおん構想のもとで、舞台芸術をまちづくりの周辺ではなく中心に置こうとしています。その現場で『十二夜』が選ばれたことには意味があります。役割を演じ、他者を誤認し、最後に関係が編み直されるこの喜劇は、共同体が演劇を通じて自分を見直す過程にとてもよく似ているからです。
ナタリーの一報だけを見ると、これは数日間の公演ニュースです。しかし少し掘ると、そこには古典受容、地域政策、人材育成、市民劇の設計思想が重なっています。東温の『十二夜』は、地方から古典へ手を伸ばした実践ではありません。古典を使って、地方が自分たちの演劇の将来像を描き始めた実践です。
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参考にした情報源
- 伊予の国シェイクスピア公式サイト「十二夜」特設ページ
- アートヴィレッジとうおん公式サイト「アートヴィレッジとうおん構想とは」「アクセス情報」
- ステージナタリー「伊予の国シェイクスピア第4弾『十二夜』本日開幕、愛媛県東温市民が送る喜劇」
- エントレ「市民でつくる!伊予の国シェイクスピア『十二夜』が2月21日(土)から東温市にて上演」
- 愛媛県庁公式サイト「Getting up to speed on art in Ehime」
- Royal Shakespeare Company “Twelfth Night”
- Shakespeare Birthplace Trust “Summary of Twelfth Night"
Written by
戯曲図書館 編集部
演劇経験者が運営する戯曲検索サービス「戯曲図書館」の編集チームです。 脚本選びのノウハウ、演劇業界の最新情報、公演レポートなどを発信しています。
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