井上ひさし未上演戯曲『うま』を読む前に──民話・ピカレスク・東北という三つの回路
2026-03-23
「新作」ではなく「発掘作」が持つ時間差の衝撃
2026年夏、PARCO PRODUCE 2026として上演される『うま-馬に乗ってこの世の外へ-』は、単なる新作情報として処理してしまうには惜しい一本です。なぜならこの作品は、2022年にテレビ番組をきっかけに存在が広く知られた「井上ひさしの未上演戯曲」であり、しかも第一稿が1959年に書かれたとされる、きわめて古い層のテキストだからです。
ふつう私たちは、劇作家の「初期」「中期」「後期」を、時系列で受け取ります。しかしこの作品は、2026年の観客が、1959年の井上ひさしに“後から出会う”というねじれをつくります。しかもそれは、全集や研究書の中での出会いではなく、商業演劇の大きな舞台での出会いです。この時間差こそが、本作を深掘りする最大の鍵になります。
ニュースで最初に注目されがちなのは、主演の小瀧望さんや演出の藤田俊太郎さんという、現在進行形のクリエイティブです。もちろんこれは重要です。ただし、今回の上演が演劇史的に面白いのは、キャスティングの話題性以上に「戦後日本演劇の重要作家が20代で書いた未上演戯曲が、21世紀の観客環境で初めて身体化される」という現象そのものにあります。
この“時間差の初演”をどう見るか。ここでは、(1)民話の回路、(2)悪漢=ピカレスクの回路、(3)東北という土地の回路、の三つに分けて考えてみます。
回路1:民話の改作としての『うま』
集英社の書誌情報および報道によれば、この戯曲は佐々木喜善『聴耳草紙』に収録された「馬喰八十八」をベースにしています。ここで重要なのは、「原作つき戯曲」というより「口承伝承を劇作に変換する試み」として見ることです。
民話は、作者が一人に定まらないまま、語り継がれる過程で形を変えます。つまり、最初から“単一の正解テキスト”がありません。井上ひさしが若い時期に民話へ向かったという事実は、後年の言語感覚の鋭さを考えても、偶然ではないはずです。語りのリズム、反復、誇張、転倒、聞き手を引っ張る間合い――これらは民話の技法であると同時に、井上戯曲の核でもあるからです。
『聴耳草紙』自体は、日本民俗学の形成に深く関わった佐々木喜善の仕事の集成として知られます。ここで収集された物語群は、文学作品として整えられすぎていないぶん、語りの野性味を残しています。『うま』がこの層を土台に持つなら、上演で問われるのは「物語の整合性」だけではなく、「語りの駆動力」をどう立ち上げるかです。
つまり本作は、写実劇の説得力で見るよりも、昔話が持つ飛躍や理不尽、欲望のむき出しさを、どれだけ舞台言語として生かせるかで成否が分かれるタイプの作品だと言えます。善悪の単純な教育劇ではなく、人間が欲や恐れに突き動かされる瞬間を、笑いと残酷さの混合で見せること。それが民話改作としての醍醐味です。
回路2:悪漢文学(ピカレスク)としての『うま』
本作の主人公・太郎は、一般的な意味での「立派な主人公」ではありません。紹介文が示す通り、機転と嘘と大胆さで共同体を翻弄し、復讐を果たしていく人物です。ここで浮かぶのは、近代小説で言うピカレスク(悪漢もの)の系譜です。
ピカレスクの魅力は、道徳的に正しい人物を称揚するところにありません。むしろ、社会の建前を逆手に取り、ずる賢く生き延びる人物を通して、共同体そのものの偽善や暴力を暴く点にあります。太郎が「悪い人」に見えるほど、周囲の欲望や権力構造が照らし出される。この反転構造こそが、現代の観客に刺さる可能性があります。
1959年という執筆時期を考えると、戦後の価値観が揺れ続ける中で、「清く正しい主人公」ではなく、もっと不穏で雑味のある人間像に向かう想像力はかなり先鋭的です。井上ひさしの後年作品には、権力への批評性、歴史への問い、言葉への徹底したこだわりが通底しますが、その萌芽が悪漢譚の形で現れていたと読むこともできるでしょう。
ここで見逃せないのは、太郎の「魅力」が単なる反社会性ではない点です。悪漢が観客を惹きつけるためには、狡猾さの裏に、時代や階層のひずみを引き受ける身体が必要です。太郎は共同体の外から来るマレビトとして設定されています。この“外部者性”があるからこそ、村の内部論理を破壊し、観客に別の倫理を突きつけることができます。
この構図は、現代社会に置き換えても読み替えが可能です。閉じたコミュニティ、情報操作、欲望の連鎖、スケープゴート化。こうした問題は、舞台を16世紀風の世界に置いてもなお、2026年の客席に跳ね返ってきます。小柳心さんのコメントにもある通り、古いテキストが現代性を帯びるのは、名作の条件の一つです。
回路3:東北という土地が持つ「原郷」と「異物感」
演出の藤田俊太郎さんはコメントで、東北民話に「忘れられない日本人の原郷」があると述べています。この視点は、単なる郷愁として受け取るだけでは足りません。東北は日本演劇において、しばしば「中央から見た地方」として消費される一方、言語・信仰・労働・気候の層が濃く残る場所として、独自の演劇的想像力を生んできました。
井上ひさし自身が山形県川西町の出身であること、そして『うま』の舞台が羽前国小松郷に置かれていることは、地理的リアリズム以上の意味を持ちます。土地は背景ではなく、人物の欲望や恐れの形を決める装置です。寒冷地の生存感覚、共同体の結束と排除、外来者への警戒。こうした要素は、民話的世界観とも密接に結びつきます。
また、東北性を扱うときに注意したいのは、「素朴」「純朴」といったラベルで均してしまうことです。『うま』が示しているのは、むしろ素朴さとは逆の、したたかさや残酷さ、笑いの黒さです。井上ひさしの言葉が持つ温度はやさしいだけではなく、痛みを伴います。だからこそ、東北を“癒やしの記号”としてではなく、歴史と暴力の記憶を抱えた場所として舞台化できるかが問われます。
井上ひさしの系譜で読む:『頭痛肩こり樋口一葉』から『父と暮せば』まで
『うま』を単発の珍しい発掘作として消費しないために、井上ひさしの他作品と接続してみます。たとえば、こまつ座旗揚げ作『頭痛肩こり樋口一葉』では、言葉の応酬が人物の生を押し出し、歴史的人物を現在の身体へ引き寄せます。『父と暮せば』では、戦争の記憶と生者の罪責感が、親密な対話劇の形式で立ち上がります。
この二作を思い出すと、『うま』は作風こそ荒々しく見えても、すでに井上作品の核――言葉による生存、権力への違和、笑いと悲惨の同居――を抱えている可能性があります。つまり本作は「若書きだから粗い」で片づけるべきではなく、「後年の井上を予告する原型がどこにあるか」を探す読みが有効です。
観客側としては、上演前に完成度を先取りして評価するのではなく、初演という現場で初めて立ち上がる“未完成の豊かさ”を受け取る姿勢が面白いはずです。発掘作の価値は、完璧さよりも、作家の生成過程が見えることにあります。
いまこの作品を観る意味:共同体の欲望を可視化する装置として
2020年代半ばの日本社会は、分断や同調圧力、情報の過熱、経済的不安を抱えています。こうした時代に、外部者が共同体の欲望を暴き、秩序をかき乱す物語が上演されることには、単なる偶然以上の意味があります。
『うま』は、観客に「誰が正しいか」を簡単には渡しません。むしろ、私たち自身が共同体の中でどのように他者を見ているか、どのような“うまい話”に欲望を乗せてしまうかを映し出します。そこにあるのは説教ではなく、笑いと不穏さを通じた自己点検です。
演劇は、正しさを配布するメディアではなく、観客が自分の感情や倫理を揺さぶられる場所です。太郎に嫌悪しながら魅了される、その矛盾した体験を引き受けることこそ、今回の上演の核心になるでしょう。
関連して触れたい戯曲・作品
『うま』をきっかけに、次の作品へ広げていくと、読みが立体的になります。
- 井上ひさし『頭痛肩こり樋口一葉』
- 言葉のリズムと群像の力学を味わう入口としておすすめです。
- 井上ひさし『父と暮せば』
- 井上作品の倫理的中核を知るうえで欠かせません。
- 井上ひさし『組曲虐殺』
- 言論と権力、芸術と時代の関係を掘り下げられます。
- 佐々木喜善『聴耳草紙』
- 『うま』の民話的源泉をたどることで、改作の妙が見えてきます。
戯曲図書館の読者にとっては、「観劇前に読む」「観劇後に読み返す」の両方が有効です。上演を先に体験すると人物の身体像が立ち、戯曲を先に読むと構造が見えてきます。どちらが先でも、往復することで解像度が上がります。
上演で注目したい実践ポイント:言葉・身体・笑いの設計
ここまで主にテキストの背景を見てきましたが、実際の舞台体験でどこを観ると『うま』が立体的になるか、具体的な観劇ポイントも整理しておきます。
1. 方言や語り口を「雰囲気」で処理しないか
東北由来の物語を扱うとき、舞台ではしばしば“方言っぽさ”が装飾として使われます。しかし井上ひさしの言葉は、音の可愛らしさだけで成立するものではありません。アクセント、語尾、間(ま)の取り方が、人物の力関係と直結します。太郎が相手を丸め込む場面では、論理よりも先に言葉のリズムが作用するはずです。
観客としては、意味の理解だけでなく、「どの台詞で空気が動いたか」を身体感覚で追うと、劇の駆動部が見えます。笑いが起きる瞬間は、たいてい意味内容ではなく、テンポや呼吸の奪い方で作られています。
2. 残酷さをどの温度で見せるか
『うま』の筋には、欲望と暴力の場面が含まれます。ここをリアルに重くやりすぎると、民話由来の跳躍力が失われ、逆に軽く流しすぎると倫理の刃が鈍ります。演出がどの温度で残酷さを提示するかは、作品全体の評価を左右するでしょう。
藤田俊太郎さんは、言葉の美しさとこわさの両立に触れています。このコメントを手がかりにすれば、観客側も「美しいのに怖い」「笑えるのに痛い」という二重性を受け止める準備ができます。舞台を観ながら違和感が生じたとき、それは失敗のサインではなく、作品が狙っている揺らぎかもしれません。
3. 主人公太郎を“ヒーロー化”しすぎないか
人気俳優が悪漢を演じる場合、どうしても魅力が前景化し、社会批評性が後退するリスクがあります。太郎をかっこよく見せること自体は悪くありませんが、共同体の醜さと同時に、太郎自身の暴力性や冷酷さも保持されているかが重要です。
もし太郎が完全な正義として描かれると、作品は単純な勧善懲悪へ寄ってしまいます。逆に、太郎にも村人にも同程度の愚かさと切実さがある形で立ち上がれば、観客は簡単に安全地帯へ逃げられません。ここにこそ、初演版『うま』の倫理的な見どころがあります。
4. 美術・音楽が「昔話化」しすぎないか
民話モチーフの舞台は、どうしても和風の意匠や郷土色で統一しがちです。しかし、それだけだと過去の物語として封印され、現代との接続が弱くなります。むしろ、時代設定は保持しながらも、音響や転換の速度、身体の配置で現代的な不安を立ち上げる工夫があるかに注目したいところです。
たとえば、群衆が同じ方向を向く瞬間、誰か一人が沈黙する瞬間、取引が合意される瞬間。こうした場面の演出が鋭いほど、観客は「昔話を見た」のではなく「いまの社会を見た」という感覚を持ちやすくなります。
戯曲を読む人のための補助線:創作にも効く三つの学び
この作品は観劇対象であるだけでなく、脚本を書く人にとっても学びの多い題材です。特に次の三点は、ジャンルを問わず創作へ応用できます。
第一に、外部者を導入して共同体を照らす構図です。物語が停滞するとき、多くの場合は登場人物が同じ価値観を共有しすぎています。太郎のような外部者は、物語の均衡を崩し、隠れていた欲望を露出させる装置として機能します。
第二に、道徳的な正しさよりも行為の推進力を優先する設計です。観客は必ずしも善人に引き込まれるわけではありません。むしろ「次に何をしでかすか」が見たい人物のほうが、劇的推進力を持ちます。太郎が魅力的なのは、彼が善いからではなく、行為の速度が速いからです。
第三に、笑いと暴力を切り離さない構成です。井上ひさし作品の強度は、笑いが単なる息抜きではなく、むしろ痛みを深くする機能を持つ点にあります。観客が笑った直後にぞっとする。この往復運動を設計できるかどうかは、現代戯曲でも大きな分岐になります。
『うま』を読む/観ることは、劇作の教科書を一冊増やすのではなく、劇作の感覚器官を一つ増やすことに近い体験です。構造・言葉・倫理を同時に考える稽古として、非常に有効です。
まとめ:『うま』は“ニュース”より“事件”として受け取りたい
『うま-馬に乗ってこの世の外へ-』は、話題の舞台化ニュースとしても十分に注目作ですが、本質的には、戦後日本演劇の時間軸に新しい切れ目を入れる「事件」です。1959年の若い井上ひさしが残した言葉が、2026年の俳優と観客の身体を経由して、ようやく上演史に刻まれます。
この作品を深く味わうためには、
- 民話改作としての語りの野性味、
- ピカレスクとしての倫理の反転、
- 東北という土地が持つ記憶の層、
この三点を意識すると有効です。
そして何より、初演は「答え合わせ」ではなく「発見の場」です。完成された古典を鑑賞する態度ではなく、いま目の前で生まれる作品に立ち会う態度で向き合うと、井上ひさしの言葉が持つこわさとうつくしさが、より鮮明に届くはずです。
参考資料
- ステージナタリー「井上ひさしの未上演戯曲『うま』を藤田俊太郎が演出、主演は小瀧望」(2026年3月23日)
- 井上ひさし公式サイト(未発表戯曲『うま』の生原稿鑑定に関する告知)
- 集英社『うま――馬に乗ってこの世の外へ――』書誌ページ
- 筑摩書房『聴耳草紙』書誌ページ
- Performing Arts Network Japan (The Japan Foundation), interview with Hisashi Inoue
