「シナリオライター御三家」最後のひとり
2026年9月18日、脚本家・倉本聰(くらもと・そう、本名:山谷馨)が多臓器不全のため、北海道富良野市の自宅で亡くなりました。91歳でした。訃報は10日後の9月28日、本人が理事長を務めていた財団の公式サイトを通じて静かに公表され、芸能界からは本木雅弘、吉岡秀隆、さだまさしといった縁の深い面々をはじめ、おびただしい追悼の声が寄せられました。
毎日新聞は訃報記事に「シナリオライター御三家、鬼籍に…」という見出しを掲げました。1980年代以降の日本のテレビドラマ黄金期を支えた「御三家」とは、山田太一、向田邦子、そして倉本聰。向田邦子は1981年の航空機事故で、山田太一は2023年に鬼籍に入り、倉本聰の死去によって、ついに御三家の時代は完全に幕を下ろしたことになります。
テレビドラマ『北の国から』(1981年〜)の脚本家としての業績は改めて語るまでもありません。しかし戯曲図書館としては、倉本聰のもうひとつの──そしておそらく本人がより深く情熱を注いだ──顔である「舞台人」としての足跡をこそ、記録しておきたいと思います。彼は単なる売れっ子脚本家ではなく、北海道富良野の地で26年にわたり演劇の私塾を主宰し、約380名の役者と脚本家を世に送り出した、ひとりの演劇教育者でもあったのです。
テレビから「降りた」男──1977年、富良野への移住
倉本聰を語るうえで欠かせないのが、1977年の富良野移住です。東京大学文学部美学科を卒業後、ニッポン放送のディレクターを経て脚本家として独立し、ドラマ『前略おふくろ様』(1975年)で既にトップランナーの地位を築いていた倉本は、42歳のとき、東京のテレビ業界と距離を置くことを選びました。
移住の背景には、脚本家としての自身の作品がテレビ局の都合で改変される現実への強い抵抗があったとされます。登場人物のナレーションを多用する独特の作風、そして演出の細部にまで積極的に関与する姿勢で知られた倉本にとって、脚本は単なる「素材」ではなく、空気や沈黙までを含めた完成品でした。それを現場で捻じ曲げられることへの苛立ちが、彼を一度テレビから降りさせたのです。
その富良野の暮らしの中から1981年に生まれたのが『北の国から』でした。都会から北海道・麓郷に移り住む黒板五郎と純・蛍の家族を描くこのドラマは、1981年の連続ドラマ放送後、2002年の『遺言』まで約20年にわたって断続的に放送され続け、日本のテレビドラマ史に「地続きの時間を描く」という新しい地平を切り拓いた作品となりました。
そして富良野への移住は、やがて倉本聰を舞台の人へと変えてゆくのです。
富良野塾──26年、375名を育てた私塾
1984年、倉本聰は富良野の地に「富良野塾」を開きました。脚本家と俳優を志す若者たちのための2年制の私塾です。彼は私財を投じて廃校を改修し、全国から集まった塾生たちと寝食を共にする共同生活を始めました。
富良野塾の暮らしは、都会の演劇学校とはまったく異なるものでした。朝は農作業、昼は演劇の稽古、夜は執筆。塾生たちは自ら畑を耕し、収穫し、炊事をしながら、台詞を暗記し、戯曲を書き、舞台を立ち上げていきました。倉本の信念は明快でした──「表現者である前に、まず人間として自然と労働の中で感覚を取り戻せ」。即戦力を求めるテレビの現場感覚とは真逆の、「心から演じ成りきる」ための時間をかけた役作り。それが富良野塾の方法論でした。
卒塾生は26年間で約375〜380名を数えます。塾生たちは、育ててくれたテレビ界に恩返しをしようと果敢に挑戦したものの、ポッと出のタレントがいきなり主役を張れるテレビの現場では、彼らが鍛え上げた「作り込む役作り」は必ずしも歓迎されませんでした。そこで倉本と塾生たちは軸足を変えます──一期一会の真剣勝負、つまり演劇作品に全霊を傾けはじめたのです。
脚本家としては、第1期生の友澤晃一、石井信之、第2期の吉田紀子(『Dr.コトー診療所』ほか)、第3期の田子明弘、第5期の久松真一らが活躍し、俳優では第4期の加藤久雅、第6期の二階堂智などが名を連ねます。「有名な俳優はいないけれど、強い絆があった」──日刊スポーツに寄せられた追悼文の一節は、富良野塾という場所の性格を端的に表しています。
富良野塾は、倉本自身の体力の限界を理由に、2010年3月末に閉塾しました。しかしその精神は現在、卒塾生たちを中心とする「富良野GROUP」に受け継がれ、ホームグラウンドである富良野演劇工場での上演活動が続いています。
舞台作家としての倉本聰──代表的な戯曲群
テレビドラマばかりが注目されがちな倉本聰ですが、彼は数多くの戯曲も遺しています。富良野塾公演として塾生たちと作り上げた作品群は、商業演劇とも学生演劇とも異なる、独自の体温を持ったものでした。
富良野塾の代表作のひとつが『走る』です。塾生たちの人生をマラソンに託したこの作品は、出演者が2時間の上演中ひたすら走り続けるという、常軌を逸した肉体への負荷を伴う舞台でした。終演後、ヘトヘトになって泣き出す出演者が続出したと伝えられる、まさに「演じる=生きる」ことを体現する舞台だったのです。
富良野塾GROUPが代表作として挙げる戯曲群には、他にも以下のような作品があります:
- 『谷は眠っていた』:富良野塾の原点とも言える農村と若者をめぐる戯曲
- 『今日、悲別で』:炭鉱閉山を背景にした、地方と労働の記憶を描く作品
- 『ニングル』:倉本自身の小説を舞台化した、森の精霊と人間の物語
- 『マロース』:ロシア(旧ソ連)の人形劇師が主人公の、国境を越えた芸人の物語
- 『屋根』:富良野GROUP10周年を記念して2016年に初演された、家族と記憶の作品
いずれも、派手な舞台美術や有名キャストに頼らず、人間そのものの体温と言葉で勝負する作品です。富良野GROUPは昨年、倉本脚本の『富良野警察物語』を上演し、今年3月にも『富良野演劇工場 Produce Series Vol.0 あゆみ』を富良野塾卒業生の演出で届けています──倉本の生前最後の時期まで、富良野の舞台は動き続けていました。
「ナレーションの脚本家」が舞台で試みたこと
倉本聰のテレビ作品を特徴づけるのは、登場人物の一人称ナレーションです。『前略おふくろ様』の板前・片島三郎(萩原健一)、『北の国から』の黒板純(吉岡秀隆)──彼らの内側の声が、画面に映る出来事と交錯しながら物語を進める構造は、倉本脚本の指紋のようなものでした。
これは実は、きわめて演劇的な手法です。シェイクスピアの独白、ギリシャ悲劇のコロス、能のワキ──物語の中にいる人物が、同時に物語の外から観客に語りかけるという二重性は、演劇の最も古い技法のひとつです。倉本が映像作品でナレーションに固執した背景には、彼が本質的に「舞台的な時間」を信じていたことがあると言えるでしょう。
実際、富良野塾の舞台作品では、彼はこの手法をさらに大胆に展開しています。登場人物の過去や心情が、別の演者によって「読まれ」たり、朗読劇的に提示されたりすることが頻繁に起こります。これは、2年間寝食を共にして役を練り上げてきた塾生たちだからこそ可能な、長い対話的な稽古の果てに生まれる芝居の形でした。
戯曲として読んでも、倉本作品には独特の間(ま)があります。短い台詞と長い沈黙。方言と標準語のせめぎあい。北海道の寒さや風の音を、ト書きが執拗なほど丁寧に書き込む──舞台を目で見ずとも、戯曲を読むだけで雪原の冷気が立ちのぼってくるような文体は、彼が「風景を書ける」稀有な劇作家であったことを示しています。
「御三家」が描いた3つの日本
ここで改めて、山田太一・向田邦子・倉本聰という「シナリオライター御三家」の立ち位置を整理してみると、三者が描いた日本の輪郭は見事に異なっていました。
| 作家 | 主たる舞台 | 描かれる人間 | 代表作のムード |
|---|---|---|---|
| 向田邦子 | 昭和初期〜中期の家庭 | 市井の家族、父と娘 | 戦前昭和の匂いを纏った家族劇 |
| 山田太一 | 高度成長期以降の都市郊外 | 中流家庭、サラリーマン | 日常の中の裂け目、断絶 |
| 倉本聰 | 北海道の自然、地方 | 家族、職人、地方民 | 大地と労働、自然との共生 |
向田邦子が「過去としての昭和の家族」を見つめ、山田太一が「現在進行形の都市の家族」の軋みを描いたとすれば、倉本聰は家族を地方の自然と労働の中に置き直すことで独自の位置を獲得しました。この三者の方向性は、戯曲として読んでも鮮やかに違います。向田戯曲の、言わなさとチクリとしたユーモア。山田戯曲の、普通の人の会話の中に忍び込む哲学。そして倉本戯曲の、長い沈黙と自然描写、濃密な情感。
御三家が完全に鬼籍に入った今、我々は彼らの作品を「現役の脚本」としてではなく、「古典の戯曲」として読み直す時代に入ったのかもしれません。日本演劇が、井上ひさし、別役実、唐十郎、蜷川幸雄らを次々と失い、やがて三谷幸喜や野田秀樹の世代もいずれ先輩になっていく中で、戦後の日本語で書かれた脚本の厚みをどう受け継いでいくのか──倉本の訃報は、改めてその問いを突きつけています。
「貧しさ」と「豊かさ」をめぐる思想
倉本聰の作品を貫く主題のひとつに、「物質的な豊かさと精神的な豊かさの逆説」があります。『北の国から』で描かれた、電気も水道もない丸太小屋での生活は、1980年代初頭の日本が「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と呼ばれ経済的絶頂に向かう時代の中で、あえて「不便さの中にある豊かさ」を提示するものでした。
同じ思想は富良野塾の運営哲学にも貫かれています。塾生に農作業を課し、肉体労働を厭わないことを入塾条件とし、都会の演劇ワークショップとは真逆の「土と汗の芝居」を志向した倉本は、晩年には環境問題にも深く関心を寄せ、2005年には「2001人の第九コンサート」を富良野で主催、2006年には環境劇「ニングル」を全国巡演しています。
この姿勢は、現代の日本演劇にとっても大きな問いを投げかけます。都市の黒い箱で行われる演劇が、地方・自然・労働という身体性を失っていないか。即戦力を求めるマーケットが、「心から演じ成りきる」までの時間を演者から奪っていないか。倉本の遺した富良野塾という実験は、答えというより、ずっと続いていく問いの形で我々に遺されたと言えるでしょう。
彼の脚本を読み、彼の遺した役者を観る
倉本聰の訃報を受け、NHKは10月4日に『プロフェッショナル 仕事の流儀「いつだって、人間は面白い 脚本家 倉本聰」』を再放送します。また、各局で追悼番組や特別ラジオ番組も相次いで組まれています。映像で彼の仕事に触れる機会はしばらく絶えないでしょう。
ただ、戯曲図書館からは、ぜひこの機会に**倉本脚本を「読む」**ことをお勧めしたいのです。『北の国から』シリーズのシナリオは理論社や映像の原点としての書籍化もされていますし、富良野塾公演の戯曲集も断続的に刊行されています。映像では流れていってしまう台詞も、紙の上では止まり、何度も読み返すことができます。黒板五郎の独白を活字で追うと、吉岡秀隆の声が消え、代わりに文字そのものの持つリズムが立ち上がってきます。
さらに、富良野塾卒業生たち──吉田紀子、二階堂智、加藤久雅ら──が今も舞台や映像の第一線で活動しています。富良野GROUPの公演は、閉塾後も富良野演劇工場を拠点に続いています。倉本聰という「作家」を失ったあとに我々ができる最大の供養は、彼が遺した戯曲と、彼が育てた人々の仕事を、きちんと観て、きちんと読むことなのでしょう。
91年の生涯、脚本家デビューから60余年、富良野移住から49年、富良野塾開塾から42年。倉本聰が日本の脚本と演劇に遺したものは、個々の作品タイトル以上に、「作家が時代と場所に腰を据えて書く」という姿勢そのものだったように思えます。北海道のあの地で、ゆっくりと言葉を練り、人を育て、芝居を作り続けたひとりの作家の仕事は、これからも長く読まれ、演じられていくはずです。
心からのご冥福をお祈りします。
参考文献・情報源
- テレビ朝日ニュース「【訃報】脚本家・倉本聰さん(91)が多臓器不全のため死去」(2026年9月28日)
- 毎日新聞「倉本聰さん死去 脚本家から追悼の声 『シナリオライター御三家』鬼籍に…」(2026年9月28日)
- 産経ニュース「脚本家の倉本聰さん死去、91歳 『北の国から』『前略おふくろ様』、富良野塾で若手育成」(2026年9月28日)
- 日刊スポーツ「【悼む】倉本聰さん、厳しさの中に深い愛 富良野塾卒業生375人に強い絆」(2026年9月28日)
- 富良野GROUP公式サイト(furano-obunit.com)
- 倉本聰 界隈 公式サイト(kuramotoso.jp)
- Wikipedia「倉本聰」「富良野塾」(2026年10月更新時点)
Written by
戯曲図書館 編集部
演劇経験者が運営する戯曲検索サービス「戯曲図書館」の編集チームです。 脚本選びのノウハウ、演劇業界の最新情報、公演レポートなどを発信しています。
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