2026年8月から10月にかけて、笑の内閣『12人の生まない日本人』が京都・札幌・東京を巡る再演ツアーを行います。ニュースとして見れば、新作の追加公演、あるいは2024年に好評を博した作品の再演です。しかし、この作品を単なる再演情報として受け取ってしまうのは、かなりもったいないです。なぜなら本作は、いまの日本で最も扱いづらい話題のひとつである「少子化」と、さらにそこへ真正面から切り込む「反出生主義」という思想を、観客が逃げにくい会議劇の形に落とし込んでいるからです。
少子化をめぐる言説は、ふつうは政策論か人生論のどちらかに流れがちです。補助金を増やすべきか、働き方を変えるべきか、結婚観がどう変わったか、若年層の可処分所得がどうか、といった話になりやすいです。一方で反出生主義は、もっと抽象的で、しばしば哲学の棚に置かれます。人をこの世に生み出すことは本当に善いのか、本人の同意なく生を与えることは倫理的に許されるのか、苦痛が避けられない以上は生まれないほうがよいのではないか、といった問いです。どちらも現代日本に直結するテーマなのに、同じ舞台に並ぶことはあまりありません。
笑の内閣『12人の生まない日本人』が面白いのは、その二つを無理なく接続しているところです。舞台は人口減少に悩む山間部の田舎町で、統廃合と小中一貫校設立をめぐる会議が開かれます。そこで一人の参加者が「そもそも行政が子育て支援をすることは倫理に反する。子どもを作ることは反道徳的だ」と主張し、議論の前提そのものを崩していきます。つまり本作は、少子化を「対策の対象」としてだけ見るのではなく、その前提にある出生そのものの倫理を問い返すわけです。これは、行政やメディアの通常の言葉ではなかなか触れられない角度です。
いまこの題材が刺さる理由
この作品がいま再演されることには、かなり強い現実性があります。厚生労働省が公表した2025年の人口動態統計月報年計(概数)では、合計特殊出生率は1.14まで低下しました。出生数の減少も続いており、少子化はもはや「いずれ来る問題」ではなく、すでに地域の学校、交通、医療、仕事、介護の配置を変えてしまう現実です。作品が小学校統廃合を議論の起点に置いているのは、抽象論にしないための工夫でもあります。子どもが減るという話を、教室の数、通学距離、地域共同体の維持という単位に引き寄せているのです。
ここで重要なのは、本作が少子化をただ嘆く方向へ進んでいないことです。少子化が深刻だからもっと産もう、支援を増やそう、という一本道には乗りません。そこでいきなり反出生主義が持ち込まれるからです。この飛躍によって、観客は「出生数をどう回復するか」という政策の問いから、「そもそも生むことを当然の善として扱ってよいのか」という倫理の問いへ押し戻されます。現実の行政会議ではまず起きにくい転換ですが、舞台ではこれが可能です。そして、その無茶な問いの立て方こそが演劇の仕事でもあります。
反出生主義を舞台に乗せる難しさ
反出生主義は、インターネット上の過激な意見として消費されがちですが、思想としてはもっと複雑です。Internet Encyclopedia of Philosophy は、反出生主義を「生殖は常に、あるいはたいていの場合、許されないとする挑発的な見解」と整理し、その代表的な議論としてデイヴィッド・ベネターの非対称性の議論を紹介しています。そこでは、苦痛が存在しないことは善であり、快楽が存在しないことは、それを奪われる主体がいない限り悪ではない、という考え方が軸になります。要するに、誰かを生まれさせなければ、その人に避けられた苦痛はあるが、奪われた快楽については被害者がいない、という整理です。
もちろん、この思想に賛成するかどうかは別問題です。多くの人にとっては直観的に受け入れがたいでしょうし、家族や未来への希望と真っ向からぶつかる考え方でもあります。しかし、だからこそ舞台に乗せる意味があります。劇場は、賛同しづらい考えをいったん他人の口から聞き、その論理だけでなく、その人がなぜそこまで考えるに至ったのかを身体つきで受け取れる場所です。哲学書では冷たく読める議論も、会議劇のなかでは表情、間、苛立ち、沈黙を伴います。そのとき反出生主義は、単なる刺激的なワードではなく、社会のどこかに確かに存在する思考の圧として立ち上がります。
『12人の生まない日本人』は、その危うい思想を単独のモノローグに閉じ込めず、他の参加者の生活感覚や地域感覚とぶつける構造を持っています。子育て世代が集められた会議である以上、そこには教育、家計、仕事、移動、親世代との関係といった具体的な論点が持ち込まれるはずです。反出生主義のような抽象理論が、日常の不便や切実さに触れた瞬間どう揺らぐのか、あるいは逆に現実の苦しさによって補強されるのか。その見え方が、この作品の核にあります。
「12人もの会議劇」という形式の強さ
笑の内閣の公式サイトは本作を、「12人の怒れる男」以来の伝統である「12人による密室会議演劇」と説明しています。この一文が示しているのは、単なるオマージュではなく、形式への自覚です。レジナルド・ローズの『十二人の怒れる男』は、たったひとつの部屋のなかで、多数派の常識がひとりの異議によってほどけていく構造を持っていました。外の世界をほとんど見せず、言葉の応酬だけで偏見と合理性をむき出しにするあの形式は、制度の正しさを疑うドラマに極めて向いています。
日本ではこの系譜が、三谷幸喜『12人の優しい日本人』のような形でも受け継がれてきました。PARCO劇場の紹介文が示すように、同作は1990年の初演以来、「議論べたの日本人にも陪審員制度が成立するのではないか」と思わせるリアリティで評価されてきました。つまり日本の「12人もの」は、法と民主主義を輸入してなぞるだけでなく、日本人の会議体質、空気の読み合い、責任の押しつけ合いを映す鏡として機能してきたわけです。
『12人の生まない日本人』は、その系譜の次の一手として読めます。『十二人の怒れる男』が合理的疑いを問い、『12人の優しい日本人』が日本的合意形成の可笑しさを映したなら、本作はさらに一歩進んで、「出生それ自体を善とみなす社会の常識」を会議室で分解しようとしています。しかも争点は殺人事件の有罪無罪ではなく、もっと日常に近い学校統廃合です。このスケールダウンが効いています。国家の大きな理念ではなく、地域の運営と子どもの将来をめぐる会議だからこそ、観客は自分と無関係ではいられません。
地方政治の縮図としての堂島町
あらすじで特にうまいのは、人口減少の議論を「堂島町」という地方自治体の小さな現場に置いている点です。鉄道は廃線、隣町の大型イオンまで車で50分、学校は5校とも児童数が減少中という設定は、地方創生の報告書で読める類型でもあります。しかし舞台にすると、その類型が一人ひとりの利害に変わります。学校がなくなると通学時間はどうなるのか、地元の店はどうなるのか、子育て世帯は残るのか、町の中心はどこへ移るのか。少子化は数字ではなく、生活の地図を書き換える問題になります。
さらに本作は、その結論を首長や専門家に委ねず、子育て世代の町民による「くじ引き民主主義会議」に預けています。この設定はかなり現代的です。市民参加や熟議民主主義をめぐる議論は、近年の政策現場でもしばしば参照されますが、演劇の題材として扱うと、制度設計そのものがドラマになります。誰が代表なのか、無作為抽出された人々は本当に地域の声を担えるのか、専門知はどこへ置かれるのか。そこに反出生主義が入ってくると、熟議の場は「答えを出す場」から「前提を疑う場」へと変質します。
ここに笑の内閣らしさがあります。高間響さんの作品は、時事性だけでなく、政治的な論点をそのままスローガンにせず、会話の摩擦として見せることに強みがあります。今回の再演ツアーでも、京都公演では劇作家、演劇部顧問、大学教員、さらには綾部市長までを招いたアフタートークが組まれています。これは単なる客寄せではなく、作品の論点が劇場の外へ延びていく設計だと見てよいでしょう。作品それ自体が討議の装置であり、上演後の場もまた討議の延長になっています。
再演ツアーで見えてくる「議論を届ける」意志
2024年初演後、笑の内閣はこの作品の再演ツアー実現に向けてクラウドファンディングを行っています。主催側の説明では、京都公演は盛況のうちに終わったものの、より多くの人に観てもらうための遠征資金が課題でした。2026年再演版でも公式サイトには「助成金に落ち、大赤字確定のため」と説明されたパトロンチケットが明記されています。ここには、小劇場がいかに社会的なテーマを扱っても、それを広域に届けるには物理的な資金が必要だという現実が見えます。
私はこの点も、本作のテーマと無関係ではないと思います。少子化や出生の倫理を論じる舞台は、観念的に高いところから語るだけでは成立しません。実際に地域を回り、異なる観客層の前に置かれて初めて、議論としての手触りが変わります。京都、札幌、東京という三都市構成も興味深いです。京都は笑の内閣の地盤であり、札幌は高間さんの地元でもあり、東京は演劇メディアの可視性が高い場です。議論の中心と周縁を往復するツアーとしても読めます。
関連作品として何を読むべきか
この作品に興味を持った方には、まず三谷幸喜『12人の優しい日本人』をおすすめします。両作は直接同じことをしているわけではありませんが、日本で「12人もの」の形式がどう翻案されてきたかを知るには最適です。『12人の優しい日本人』は、会議が進むほどに日本人の優柔不断さ、同調圧力、理屈より空気で動く癖が浮かび上がる傑作です。『12人の生まない日本人』を見る前後に触れると、同じ密室会議劇でも、争点が法から出生へ移るだけで空気がどう変わるかが見えてきます。
次に押さえたいのは、やはりレジナルド・ローズ『十二人の怒れる男』です。こちらは密室会話劇の原型として、異議申し立てが集団心理をどうほぐすかを学ぶうえで外せません。観客は一人の正しさに拍手するだけでなく、多数派の常識がいかに雑に作られているかを体験します。『12人の生まない日本人』も、おそらく同じ快楽を使いながら、結論をもっと不安定な場所へ運ぶはずです。
さらに現代の法と演劇の関係を見るなら、スージー・ミラー『プライマ・フェイシィ』も並べてみる価値があります。こちらは会議劇ではなく一人芝居ですが、制度の言葉が個人の身体にどうのしかかるかを突きつける点で共通しています。『12人の生まない日本人』が出生と自治の問題を集団討議で扱うのに対し、『プライマ・フェイシィ』は法制度の内部で一人の身体がどう消耗するかを描きます。制度批評の温度差を比べると、日本の会議劇がどこまで生活の具体へ潜れるかも見えてきます。
この作品を「賛否の題材」で終わらせないために
この作品をめぐっては、おそらく賛否がはっきり分かれるでしょうし、それでよいと思います。反出生主義というテーマには、どうしても拒絶反応が出ますし、少子化を前にしてそんなことを言っている場合か、と感じる人も多いはずです。ただ、本作の価値は、反出生主義に賛成させることではありません。むしろ、私たちがふだん無意識に共有している「生むことは良いことだ」「子どもが増えることは良いことだ」「少子化はただちに是正すべきだ」という前提が、どの程度まで自明なのかを、会議室の言葉で揺らしてみせるところにあります。
演劇は、答えよりも問いの置き方で勝負する芸術です。『12人の生まない日本人』は、現実の政策現場では扱いにくい問いを、閉じた部屋のなかへ持ち込み、しかもそれを地域社会の生活感に接続しています。この接続のうまさがあるから、単なる話題作では終わりません。哲学と自治、統計と感情、政策と身体、そのあいだのズレを観客に引き受けさせる作品になりうるのです。
2026年の再演ツアーは、少子化のニュースに疲れた人にこそ勧めたい一本です。なぜならこの作品は、「出生率を上げるには何をすべきか」という聞き慣れた議論の外側に、まだ劇場でしかきれいに扱えない論点が残っていることを教えてくれるからです。戯曲図書館の読者にとっても、これは時事ネタではなく、いまの社会がどんな前提で人を生かし、どんな言葉で未来を語ろうとしているかを考えるための会議劇として、かなり見逃せない題材だと思います。
参考情報源
- 笑の内閣公式サイト「第35次笑の内閣『12人の生まない日本人 再演ツアー』」
- 笑の内閣公式サイト「第32次笑の内閣『12人の生まない日本人』」
- ステージナタリー「笑の内閣『12人の生まない日本人』の再演ツアー」
- 厚生労働省「令和7(2025)年人口動態統計月報年計(概数)の概況」
- Internet Encyclopedia of Philosophy「Anti-Natalism」
- PARCO劇場「12人の優しい日本人」
- 劇評 note「自分とフィクションがつながるとき:第32次笑の内閣『12人の生まない日本人』劇評」
- Congrant「笑の内閣『12人の生まない日本人』の再演ツアーを実現させたい」
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Written by
戯曲図書館 編集部
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