贋作 桜の森の満開の下を読んだ感想
平成元年に夢の遊眠社で初演を迎え、その後再演を繰り返し、平成の終わりに近い2018年にもNODA・MAP版で再演がありました。さらには、シネマ版というのも2019年にあり、長く広く愛されている作品です。 内容は、坂口安吾の「桜の森の満開の下」、「夜長姫と耳男」、その他小説やエッセイをもとに古代日本史の壬申の乱の話などを加えて、再構成された作品です。 原作はどちらも青空文庫などで読むことができますのでぜひ読んでみてください。 坂口安吾の「桜の森の満開の下」では、昔は、いまのように桜は美しいと人が集まるような場所ではなく、むしろどこかもの恐ろしさを感じる場所で、そこを通るものはみな狂ってしまうという様子が描かれています。 「美しさ」と「怖さ」が相反するものではなく、むしろ近いものだと言わんばかりの描写は、野田秀樹さんも『贋作 桜の森の満開の下』で描いています。夜長姫の美しさあまりに、取り憑かれる男たち。それはまるで桜の木のような不気味さを放っています。 それはさらに言えば、人間の顔をしていても心が鬼であるような、鬼の顔であっても人間の心を持っていたり、正常と狂気どこか分離できない性質を私たちも持っているというような問いかけにも見えます。 でも、そんなこと考えていなくても、後半部分のセリフはとにかく綺麗で美しい。 そんな野田秀樹さんの作品に取り憑かれている自分を振り返り、これも狂気の一種なのかなと思いました。「いやぁ、まいった… まいった…」